2014年3月30日日曜日

考えるための極意

この記事は、私が外山滋比古著・『思考の整理学』(ちくま文庫)を読み、考えを綴ったものです。

私は、院の2年間で「考える力をつける」ことを第1の目的としています。そんな私にとって、この本からもらった恩恵はとても大きいものでした。ちくま文庫のベストセラーでもあるこの本を、拙いながらも解釈し、(私にとっての)本書のエッセンスを取り出してみました。

(ここではハウツー本的な書き方になってしまいましたが、原著はそんな書き方ではありません。あくまで氷山の一角を取りざたしたまでです。)



○ 朝に考える
これはあらゆる本に書いてあることですよね。夜にだらだらと考えるのではなく、考えるに適するのはやはり朝です。

外山さんは「夜考えることと、朝考えることとは、同じ人間でも、かなり違っているのではないか、ということに気づいた。」(p22)
と述べています。

これはもちろん理由があります。私がもっとも納得した理由はをざっくり言うと、
「人は寝ているときに出来事や思考を整理する。頭がもっとも整理された状態でものごとを考えられるのは朝であり、よって朝に考える作業をすべきである。」
というものです。わかりやすくするために、部屋で作業することを考えてみます。部屋が服や書類、ごみなどで散らかっていると、勉強するにも、ちょっとした運動をするにも、探し物をするにも、何をするにも困難になります。人間の頭でいうと夜がこの状態ですね。朝起きて、仕事場にいき、作業をし、ご飯を食べ、運動をし、、、といったいろんなことが起こり、頭がいろんなことを思い考えた状態では、考える作業は困難になります。

やはり考える仕事、アイディアを出すこと、文章を書くことなどは、頭が整理された朝に行うべきなのですね。



○ 三上(さんじょう)で考える
その昔、中国に欧陽修という人が、文章を作るときに、すぐれた考えがよく浮かぶ3つの場所として、馬上(ばじょう)、枕上(ちんじょう)、厠上(しじょう)をあげました。馬の上で、朝にふとんの上で、便所にいるときに、ふといい考えが浮かぶということです。

これを現代にあてはめてみるならば、車にのっているとき(歩いているとき)、朝ベッドでぼーっとしているとき、トイレで便座にすわっているとき、となるでしょうか。しかし重要なことは、これはあくまで例えであり、本質は「一見無駄であるような時間こそ大切にせよ」ということだと考えます。

卑近な例で申し訳ありませんが、私は、少しでもボーっとする時間は、できるだけ排除しようとしながら生活しています。何もずっと生産的なことをしているのではなく、例えば「トイレで座っている時間は暇で、効率的じゃない。漫画おいとこう。」とか、「料理をしている時間にただ料理しているのは効率が悪い。よし、片手間でテレビつつ部屋を片付けつつやろう。」となります。要するに、「ながら生活」というのか、常に余裕をもたないわけです。

おそらく、こういった習慣をもっている私では、アイディアマンには決してなれないのでしょう。私が勝手に勘違いしている”効率のよい生活”を求め続ければ、つまり「考えるときはしっかり考える、考えないときは何も考えない」といった一見”効率的”なことをしていては、本当に柔軟で、ふとしたよいアイディアを生むことはできないのでしょう。

私はこの習慣を改めていかなければと反省しています。万が一、私に似たことをしている方がいるならば、今後運転している時間、朝の何気ない時間、トイレにいる時間も、何かし「ながら」でなく、なんとなしに徒然なることに思考をめぐらせてみてください。



○ 寝させて考える
先ほど、私は「『考えるときはしっかり考える、考えないときは何も考えない』といった一見”効率的”なことをしてい」ると述べましたが、これはもちろん、「『考えないときは何も考えない』ことは実は非効率だ」という意味です。その理由はこの「寝させて考える」という習慣にあります。

外山さんが本の中でおっしゃっています。
「本当の大問題は、長い間、心の中であたためておかないと、形をなさない。」

先ほど三上(さんじょう)について述べましたが、何気なしに自分でずーっと持っている疑問や考えるタネがないと、当然何も答えや発想は得られません。しかしながら、多くの人は、必ず何か疑問は常にもっているのだと思います。皆さんも、「あー、あれはこういうことだったのか!」と思う経験をしたことがあるはずです。これは、誰もが何かしら、大なり小なりの疑問をもっているということですね。

これを利用して、会社の仕事や、論文の作成、悩み事の解決策など、身近な問題を長期間で考える習慣をつけましょう。悩み事などもずっと悩んでいるのではなく、とりあえず寝かせておくわけです。あるときふと、「こうすればいいのか」、「こういうことか」と大なり小なりの解決策は出てくるはずです。これが「時間が解決してくれる」ということなのかもしれませんね。



○ しゃべって考える
「調子に乗ってしゃべっていると、自分でもびっくりするようなことが口をついて出てくる。やはり声は考える力をもっている。われわれは頭だけで考えるのではなく、しゃべって、しゃべりながら、声にも考えさせるようにしなくてはならない。」(p159)

私は、研究室で何気なく話すことは授業よりも収穫があると思っています。まあ別に収穫がなくても楽しければオールオッケーだけど、求めずとも、何かしら得るものがあります。

ゴシップや人の悪口(「他人の不幸は蜜の味」と言いながら、外山さんもこの欲求を不可避なものだとしています。)ばかりを友人同士でしゃべるのではなく、自分の疑問に思っていること(対人関係ばかりでなく!)をしゃべる習慣をもちたいですね。それを認めてくれる友人は、決して上辺だけの関係ではないと思います。



○ 書いて考える
「とにかく書いてみなさい」(外山滋比古)
「紙と鉛筆なしに考えることはできない」(柳瀬陽介)
ちょっと並べてみました(笑)。紙と鉛筆というのは比ゆですが、柳瀬先生も常々こうおっしゃっていますよね。

考えてから書くのは間違いです。よく勘違いされることですが、順序が違います。私は今まさに書いていますが、書くことで自分の頭を整理しよう、書くことで新たな発想を得たい、という目的もあって書いています。

書くことで頭が整理されるというのを、本書にあった比ゆを借りて説明したいと思います。
ぐじゃぐじゃに絡まった糸のかたまりを思い浮かべてください。これが本書を読み終えた(私の)頭の中にあります。その糸のかたまりを、できるだけ一直線にして頭においておきたい、そのために書きます。書いているうちに、だんだんと考えていることがはっきりしてきます。しかし、本書を読み終えて残る糸のかたまりは、一本の糸でなく、何本もの糸が絡まっています。そのすべての糸を直線にして整理するには、おそらく数万文字は書かなければならないでしょう。それは不可能ですが、少しでも糸を整理するために、やはり書く作業が必要なのです。書いているうちに、だんだんと考えていることがはっきりしてきます。

外山さんは、「書く作業は、立体的な考えを線状のことばの上にのせることである。」(p136)と述べています。考えをきちんと整理したいとき、しなければならないとき(文書や論文作成)には、まず、書いてみることがスタートなんですね。



 「セレンディピティ」という現象
ここから少し、「考える」という主題から逸れますが、知ってて必ず役にたつ内容なので、紹介したいと思います。

誰しも一度は、学校の試験の前日になって、勉強しなければならないのに部屋の掃除をしてしまったり、普段は決して読まない本なんかに手を出してしまう経験があると思います。勉強しなければならないときなのに本を読んでしまい、その本を読みふけってしまう。結果的に本来の勉強の予定は大幅に狂ってしまったが、本の内容を知ることができた。これを少し抽象的に言い直すと、「中心的関心よりも、むしろ、周辺的関心のほうが活発に働いた」ということになります。この考え方が、セレンディピティ現象の考え方です。ちなみにセレンディピティは過去の人の造語です。

また別の例では、学校の授業で、教科内容はつまらなくて身についていないけど、先生の話す雑談や、一見どうでもいい話をよく覚えている、ということをしばしば耳にします。それに、「あの先生の授業はうんちくを教えてくれるからおもしろい」という生徒の声も何度か聞きました。これも、「中心的関心よりも、むしろ、周辺的関心のほうが活発に働いた」例ですね。

私は教師を目指していますが、授業を組み立てるうえでこの考え方はとても参考になります。まあ、雑談や脱線と呼ばれるものを組み立てるというのも変な話ですが。笑

外山先生も、
「教師も脱線を遠慮するには及ばないのである。われわれは、そういう気軽な話のうちに多くのことを自らも学び、まわりのものにも刺激を与える。」
とおっしゃっています。



○ 「見つめる鍋は煮えない」
これまで、朝に考えること、三上で考えること、寝させて考えること、しゃべって考えること、書いて考えること、セレンディピティについて述べてきました。これらすべての考え方に当てはまり、本書の主旨をとらえた考え方が、「見つめる鍋は煮えない」という慣用句で表されるのではないかと考えました。本書でも何度か繰り返し登場する慣用句ですが、本質をうまく表現していることばだなあと感じます。

ずっと鍋を見つめていては、なかなか煮えません。少し目を離し、また再度注目したときには、確実に煮えは進んでおり、もしかすると煮つまっているかもしれないですね。

例えばこれを「悩み事の解決」に照らしてみましょう。

夜暗い部屋で悩んでもネガティブなほうへいくだけなので、朝頭が整理され、すっきりした状態で悩みましょう。それは悩み事ですらないかもしれません。
ふとリラックスできるようなトイレの中や、風呂の時間、車のなかなんかでぼんやりしていましょう。ふと解決策が思いつくかもしれません。
人に話してみましょう。人からアドバイスをもらうためだけではなく、しゃべることで声に考えさせます。
書いてみましょう。頭の中の糸が少しずつ一直線になっていき、なぜ自分が悩んでいるのか、何に悩んでいるのかがはっきりするはずです。

これが今回のブログのまとめです。「悩み事の解決」だけではなく、会社のタスク、論文の作成、授業の組み立てなど、考える作業を要するものにはすべて適応できます。しかしながら、考える作業を要するものという言い回しも滑稽ですね。人間は「考える葦」とも言われます。ただ機械的に時間が過ぎるのを待つのではなく、考えるという人間的な行為を忘れずに、そしてそのときには「見つめる鍋は煮えない」という先人のことばを思い出しましょう。そして、考えることを通して生活がよりよくなっていけば、それはいいことですね。


以上

前回、モラトリアムでネット廃人のような自らの趣味を露呈するクソみたいな投稿(汗)をしてしまったので、できる限りまじめに取り組みました。バランスを求めていきたいと思います。