2014年5月1日木曜日

あなたの思い浮かべる理想の生徒像はどんなものですか-胡子先生の達人セミナーに参加して-


先週末4月26日(土)に広島市で行われた達人セミナーに参加してきました。
胡子美由紀先生に講演していただきました。

学ぶことがとても多く、教師や教師を目指す人にとっても有益な情報ばかりだったので、ブログにまとめさせていただきます。

今回は、考えることが多かった以下の4点を書きたいと思います。
 
 ○ 自分がなんとなしに思い浮かべている授業像や生徒像について
 ○ 授業づくりのポイントについて
 ○ Dale's Cone of Experience
 ○ 胡子先生がなぜスーパー英語教師になれたのか

では、1つずつ、できるだけreader friendlyな説明を目指して書いていきたいと思います。

1 自分がなんとなしに思い浮かべている授業像や生徒像について

私も、なんとなく「こういう授業がしたい」、「こういう生徒になって巣立ってほしい」という像があります。おそらく教師であれば誰しもがこういった”ふんわりした”像を描いているでしょう。

胡子先生がすごいのは、それを彼女の言葉で言語化しているところだと思いました。ふんわりと思い描くのではなく、頭の中の像をできるだけ言語化し、それを目的(aim)として定め、それにこだわり続け、そのために「チェックリスト」(後述)を作り、その目的に即した目標(object)を設定し、その目標を達成するためには今何をすればよいかを決め、それを”素敵に”実践に移します。

セミナーで得た1番大切なことを今書いてしまいました。今回の記事でもここが1番のポイントだと思います。ここだけでも精読してやってください。“素敵に”のところは章を改めて書きます。


2 授業づくりのポイントについて

では、ここでは胡子先生の「チェックリスト」を掲載したいと思います。これらから先生の思い描く生徒像が透けて見えてくるかもしれませんね。先生はこれを「授業づくりのポイント」として私たちに示してくれました。

1 教室全体が学びの場となっているか
2 一体感があるか
3 教師と生徒・生徒同士の交流があるか
4 生きた英語が飛び交っているか
5 生徒の英語使用時間はどれくらいか
6 生徒の思考が活性化する時間はどれくらいか
7 表現できない(言えない・書けない)体験をたくさんさせているか
8 生徒が達成感・充実感をもち授業を終えているか

私は、先生の授業での生徒の様子を見せていただいたので、これらの言葉が決してただの綺麗ごとではないことがわかります(文章での表現は難しいのでやりません。恐縮です)。公的な文章でもこういったものは書いてあるかもしれませんが、先生のものは現実的で、より”重い”と思います。

さて、私は特に「3 教師と生徒の交流があるか」と「6 生徒の思考が活性化する時間はどれくらいか」について少しだけ書きたいと思います。

-「3 教師と生徒・生徒同士の交流があるか」について

これはなかなか難しいことでもあり、かつ授業には不可欠なことであると思います。教師と生徒が交流しないような授業をするのであれば、ネット上にいくらでもある英語学習サイトや、某予備校のDVDを生徒に50分見させたほうが、よっぽど生徒のためになるでしょう。あるいは、生徒同士が交流しないのであれば、教室でせっかく一緒にいる意味がありません。一人で学ぶよりも、みんなで学ぶほうがいい。特に英語という教科ではそうではないでしょうか。

しかし、現状としては、教師だけがしゃべっているような授業や、生徒の顔すらまともに見ずに授業を進める教師がいます(私の経験上ですが)。あるいは生徒同士がまったく交流しない英語授業がとても多いです(私の経験上ですが)。そんな現状を私たち若い世代から変えていければいいですね(個人的には、机の配置から変えたいと思っています)。

-「6 生徒の思考が活性化する時間はどれくらいか」について

授業はメリハリをつけるのが良いと私は考えています(黙れ教壇未経験者www)。前の授業で頭が疲れている生徒を少しでも休めるために雑談から入り、帯活動で徐々に英語授業へ。授業のクライマックスで生徒の思考がフル稼働しているのが理想です。

思考をフル稼働させる有効な手段は、英語を話したり、書いたりすることだと考えます。アウトプットの活動を授業の最後にもってくることを目指して授業構成をしたいところです。

また、学習事項(文法でも、語彙でも、文章の内容でも)を自分の身に落として考えることも、思考の訓練に必要なことだと考えます。英語を教科書上のものにせず、自分の経験と照らし合わせて考えさせる(参照:「日常と結びつけて考える授業とは」)ことで、「生きた英語」を目指したいです。


3 Dale's Cone of Experience

ご存知の方も多いと思いますが、Daleの学習ピラミッドというものがあります(院生になるまで知らなかったなんて...)。私にとって心から納得でき、実践すべきと思ったものでした。ここでは図のみをもって紹介いたします。各図で、下にある教授法を用いるほど、学習者の理解度や定着度があがるというものです。(上の図が簡単なもの、下の図がより詳細なものですが、上の図とは異なります。)








よくある授業は、せいぜい視聴覚教材を用いる程度ではないでしょうか。正直、大学の講義はこの観点でいうと「ひどい」としか言えないものが多いように思います(なんという攻め!)。伝えることが多くって、きっと大変なんだなあと思いますけどね(退却!)。


4 胡子先生がなぜスーパー教師になれたのかについて

「そんなことお前にわざわざ分析されなくてもいいよw」という声には耳をふさぎ、少し考えてみたいと思います(1章で言及した、「”素敵に”実践する」という話につながります)。

まずは「考えぬく力と習慣」です。先生は、お国が出している文書や、お偉いさんが書いた本、すなわち、他人が考えたことばかりを実践しているわけではありません。英語力とは何か、自分が思う理想の生徒とはどんな生徒か、そのためには授業をどうすればよいか、などといったことを、現場で考え抜いている方です。だから先生にとって理論は後づけだと思います。言い換えれば、自分で考えて実践していることが、理論としてどこかにあったとか、もしくは理論が追いついていない、そんな感じを受けました。

私は大学と院の6年間で、理論がだいぶ先行してしまいました。他人が考えた”良い”ものばかりが私の頭を支配しています。教壇にたったときには、そこに経験を加えて自分のものに変容し、あるいは自分の頭で生徒と向き合いながら考えていきたいと思います。だから、やはり今、院でやることは「今、ここで、考える力」をつけることですね(院に入った当初の目的だ。間違いではなかった!と盲信。)。

最後にもう1点。
先生のすごいところは、たぶんこれに尽きると思いますが(言いすぎですが)、魅力なんだと思います。これは樫葉みつ子先生がおっしゃっていたことなんですが、教師には何らかの魅力が必要です。胡子先生の場合、生徒がひきつけられるような強い魅力をお持ちだと思います。バイタリティに溢れ、とても優しく、何より美人です(これには院生全員の賛成票を獲得しています笑)。そんな魅力があるから、生徒たちは英語に対する恥ずかしい気持ちとか、英語は難しいという先入観とかを捨てて、全力で先生についてくるのだと思います。

私はバイタリティに溢れるわけでもなく、先生のように生徒を包み込む優しさもなく、美人でもありません。しかし、私にしか見出せない魅力を見つけ、そしてそれを伸ばしていき、生徒が安心して私についてこれるような教師になりたいと思っています。そして、スーパー教師を超えたスーパー教師2をさらに超えた、スーパー教師3になりたいと思います。



・・・
以上、ここまで読んでいただいた方、貴重なお時間ありがとうございました。
また、胡子先生には何度もセミナーで教師のいろはを教えていただきました。本当にありがとうございました。またよろしくお願いいたします。










「日常と結びつけて考える力を育む授業」とは



私は、英語教師になるにあたり、教壇に立ったら、「日常と結びつけて考える力を育む授業」を展開したいと考えています。私の指導教員の授業で、John DeweyのDemocracy and Educationを読んで考えたことを以下に転載いたします。

(なお、わたしを含め、他の院生の思考はhttp://yanaseyosuke.blogspot.jp/search?q=Dewey+%E9%99%A2%E7%94%9Fに転載されています。)

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以下の内容は、某高校への研究授業に向かう車の中でM1のN君と話した内容です。実際の会話を、簡潔な形で抜粋します。


N 「教壇に立ったらどういう授業がしたい?」
私 「生徒が自ら、授業の内容を、全て実生活に結び付けながら聞く授業。生徒が考える授業をしたいと思ってる。」
N 「生徒に考えさせる授業か。おれも実習でその大切さを教わった。おれの指導教員は、『生徒にいかに考えさせるかが、教師の力量に直結する』とおっしゃってたな。その話、もう少し詳しくお願い。」
私 「例えば、サッカー部の子はサッカー部での経験と、授業内容を結びつけながら。部活していない子は、昨日読んだ本とか体験したことに結びつけて。」
N 「そうか、つまり柳瀬先生の授業でおれたちがやってきたやつだ。でも、①経験が浅い高校生にそれができるか?発達段階的に不可能では?あと、②じゃあ例えば、英語の文章をパラフレーズするやり方を教える授業をするんやったら、生徒はどういう風に実生活と結びつけたらいいの?」


 N君は、私よりはるかに教師になったときのことを具体的に考えており、かつ、努力を惜しまずやっている友人です。そんなN君と話していて、多くのことを考えさせられました。特に上の会話で出た2点は、私にとって重要な課題です。それらをDeweyに沿って考えていきたいと思います。 

① 発達段階 v.s. 悪習慣
 高校生は、人生経験が浅く、知識も大学生に比べて乏しいです。ここでは、そういった意味で発達段階と言うことにします。そういった高校生に、授業を通して、実生活に結びつけて考えさせる習慣を培うことは不可能なのでしょうか。つまり、知識を教師から一方的に教えることしかできないのか、あるいはその方が良いのでしょうか。  

 この点について、私は完全に反対の立場に立つことはできません。Deweyも”Knowledge, already attained knowledge, controls thinking and makes it fruitful.”と述べています。高校生は、おしなべて言えば、考える材料(知識や様々な経験)が大学生よりも少ないです。大学生が柳瀬先生の授業で日常と結びつけることができるのは、ある一定の知識を得ているからかもしれません(ちなみに私の場合、色んなものを結び付けて考える習慣がようやくついたのは、大学4年生くらいからでした)。また、高校生は、1日に6~8授業をこなしており、与えられる知識も膨大な量になります。膨大な知識量を詰めこまれるため、そもそも、考えることに体力を消費している暇がないのかもしれません。ただただ授業を受け続け、知識を教わり続け、椅子に座っている以外に、高校生ができる選択肢はないのかもしれません。もしそうなのであれば、私の目指す授業を展開するには、少なくとも、学校全体が動くことが必要になると思います。若手の下っ端教員である数年後の私にとって、それはあまり現実的ではありません。  

 しかし、それでも私は「生徒に考えさせる授業、日常に結びつける習慣がつく授業」を展開したいという思いがあります。ここで私が主張したいのは、「英語教師の授業形態によっては、英語の授業においてだけでも考える習慣がつくのではないか」ということです。Deweyは

…a theory apart from an experience cannot be definitely grasped even as theory. It tends to become a mere verbal formula, a set of catchwords used to render thinking, or genuine theorizing, unnecessary and impossible. (p.138)(拙訳:経験と離された教育内容は、教育内容としてすらきちんと理解されない。[経験と結びついていないならば、]教育内容は、思考や純粋な教育内容の構築を不要あるいは不可能にしてしまうために使われる、単なることばの形式や定型表現となってしまう。)


と述べています。教師のこのような授業形態(すなわち、生徒自身の経験と教育内容とを結びつけない授業)の連続が、生徒を考えることから遠ざけているのだと思います。高校生に知識が少ないからではなく、そもそも経験(すなわち日常)で考えることをさせずにいるという現状があるのではないでしょうか。英語教師が英語の授業で日常と結びつける術を教え、そうして考えることを授業内で行わせていけば、少なくとも英語の時間は日常で考えるようになってくれるのではないでしょうか。そう信じて、教壇に立った時には授業を展開してみたいと思います(粘り強くやってみて、それが駄目だったら、obstinacyにならないよう、方向転換を考えますが…)。 

② パラフレーズをどうやって日常で考える?
Deweyが

Thinking, in other words, is the intentional endeavor to discover specific connections between something which we do and the consequences which result, so that the two become continuous.(p.140)


と述べている通り、「考えることは結びつけること」です。では、英語の授業でしばしば行われるパラフレーズの指導を例にとるならば、それはどのように日常と結びつくのでしょうか。

 英語の授業では、説明文教材などを用いてパラフレーズの仕方を学習します。指導が成功すれば、生徒は「こうやって言い換えをすれば、わかりやすくするのか」「こうやって文章を整理していけばいいんだ」といったことを学びます。生徒はこの技術を駆使して、期末試験やセンター試験などを解いていくことでしょう。

 しかし、この技術を英語のテストだけに用いるのはもったいないですし、そもそもそれでは意味がないと思います。テストで問われない限り、一生その技術を使う日などきません。それでは学校で教える意味がありません。

 私の経験から、パラフレーズを学ぶ意義を考えてみます。私の友人に、「難しい本の内容を簡潔に、昨日の講義の内容を簡潔に、面白いエピソードをきれいな形で」語れる人がいます。この能力はまさに、パラフレーズが上手い一例ではないでしょうか。パラフレーズは決して英語のテストで測られるものだけでなく、私の友人の例のように日常と直結しているものであり、生きる上で大切な能力です。これはまさにコミュニケーション能力であり、英語科が目標として掲げているものです。このように、日常に落として初めて、パラフレーズの英語授業はコミュニケーション能力に結びつくものになるのではないでしょうか。 

 以上が、私が「日常と結びつけて考える力を育む授業」を目指す理由と具体例です。今回はたまたまパラフレーズを教えるという事例を取り上げましたが、これは本来、生徒を前にして初めて考えるべきことです。しかし、院生である間も、目指す授業を実現すべく、できるだけ具体的に授業像を考えていきたいと思います。  

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