2013年5月25日土曜日


身体性に重きを置く、非客観主義(経験基盤主義)とは?
-客観主義との比較を通して-

 
 私の好奇心は、「腑に落ちる」とはどういうことか、というところにあります。なぜわれわれは「理解をする」ことを「腑」に「落ちる」、あるいは英語では”to go down with one”などと表現できるのでしょうか。

それを解明するにあたり、「身体性」「メタファー」などのキーワードを得ました。
以下、客観主義との対比の中での非客観主義の立場をまとめ、人間の理解に身体性を踏まえることの正当性を示したいと思います。

今後、この興味を突き詰めるに当たり、アドバイスを頂けるとありがたいです。
最後の方に今後の展望も載せておりますので、ご意見、ご指摘、ご質問などございましたらコメントにお願い致します


※この先行研究は、私がMark Johnson The Body in the Mind: The Bodily Basis of Reason and Imagination およびその翻訳書(菅野盾樹・中村雅之訳『心の中の身体-理性と想像力の身体的基盤』)と、George LakoffWomen, Fire, and Dangerous Things: What Categories Reveal about the Mind およびその翻訳書(池上嘉彦・河上誓作・他訳『認知意味論-言語から見た人間の心』)を私の視点からまとめたものです。



<先行研究>

1 客観主義
非客観主義と対比するために、まずは伝統的な見解である、客観主義を以下にまとめたい。客観主義では、現実について形而上学的な見方をする。形而上学とは、現実のすべては「もの」からなり、「もの」はどんな時点においても成り立つ固定した属性と関係を有するとする考え方である。それは明らかな真実であって疑いようもないと(客観主義者によって)思われている世界観である。また、客観主義は人間の認知にも関心をもち、人間の正しい論理的思考とは何か、意味とは何かといったことなどを説明する。
以下、理性、意味、理解、身体に関して、客観主義の取る立場をみていく。なお、これらは2で示す非客観主義と対応している。

.1 理性
客観主義では、理性を行使する能力とは抽象的なものであって、必ずしも何らかの生物体の身体性に関わるものではないと考える。理性というものを文字通りのもの、つまり、何よりもまず客観的に真か偽のいずれかの値をとりうる命題に関わるものであるとする。そのような立場からすると、意味ある概念とか理性的能力といったものは、いかなる生物体の身体的限界をも超越したものであるとされる。たまたま意味のある概念や抽象的な思考が、人間・機械・その他生物体にそれらの身体の一部として組み込まれていることがあるとしても、それらの存在は抽象的なレベルのものとは関わりのないものである。

.2 意味
客観主義において、意味とは、文と「客観的な実在」との関係であるとみなされる。カルナップ(1947)は「文の意味を知ることは、文が可能な事例のどの場合に真であり、どの場合に真でないかを知ることである」と主張する。言語表現が意味を得るのは、現実世界や何らかの可能世界に対応することができること、あるいは対応しないこと、を通じてのみである。すなわち、言語表現は、(名詞であれば)正しく指示したり、(文であれば)真か偽であったりすることができる。
ここで、非客観主義との対比で重要になる問題を挙げたい。客観主義のパラダイムは字義と比喩を区別する。字義的意味は、客観的に真か偽か決まる意味である。また比喩表現(メタファー、メトニミー、心的イメージ)といったものは想像力の産物であり、それらは真の概念の領域からは追い出されてしまう。なぜなら、それらは客観主義世界の「もの」に対応できないためであり、また、概念は現実世界(あるいは可能世界)にある「もの」やカテゴリーに直接的に対応していなければならないためである。

.  理解
客観主義では、理解を引き合いに出すのを避けようとする。なぜなら、この語は、世界とわれわれを媒介する人間の主観性の役割を思い起こさせるので、この点が意味の客観性にとって重大な脅威だとみなされるからである。よって理解の身体化は、意味論にとって全面的に不適切なものとみなされる。

.4 身体
身体は、客観主義において無視されてきた。理由は2点あり、(1) 身体は意味の客観的本性とは関係ないとみなされた主観的要素を導入すると、客観主義において考えられてきたからである。また、(2) 理性は抽象的で超越的なもの、すなわち人間的理解の身体面には何一つ結びつきをもたないもの、と考えられてきたからである。
しかし、人間が存在する世界で身体に対して与えらる役割は存在し、その役割とは、(1) 抽象的概念に対してのアクセスを提供すること、(2) 超越的理性の型式を模倣する生物学的手段を提供すること、(3) 可能な概念や理性の働きの形式に対して制限を課すること、である。



  非客観主義(経験基盤主義)
次に、私が本研究にあたって身をおく立場である、非客観主義について言及する。まずは上述の客観主義との比較を、理性、意味、理解、身体の観点から行う。

.1 理性
非客観主義では、理性は、身体性を踏まえて成り立つものである。理性というものの持つ想像的な側面(メタファー、メトニミー、心的イメージ)が、理性にとって中心的な役割を果たすものと捉える。客観主義のように、想像的な側面を、文字通りのものに対する周縁的で取るに足りない付加物といったような受け取り方はしない。非客観主義における、理性の研究にとっての中心的な関心事は、(1) 思考する生物体の本性とは何か、(2) そのような生物体が自らの置かれた環境の中でいかに機能するか、ということである。そこでは、生物体(自ら思考し機能しつつ生存するもの)にとって、何が有意味とされるかということが問題となる。

.2 意味
意味とは、客観主義なら主張するような、単なる文と「客観的実在」との固定した関係ではない。一般に固定した意味とみなされるものは、沈殿し動きを止められた構造にすぎない。非客観主義では、意味とは常に理解の問題であると考える。理解とは一つの出来事であり、人はそのさなかで世界をわがものとする。非客観主義の立場において、共通世界にかんするわれわれの経験を構成するのはこの理解であり、こうしてわれわれは共通世界の意味を了解しうるようになる。
客観主義的な意味論では全体を説明しえない意味現象に関して、非客観主義は、意味現象を説明しうる鍵となる3つの観念を持つ。それらは、理解、創造力、身体化である。以下に、理解と身体について言及したい。

.3 理解
非客観主義における理解とは、われわれが世界を理解可能な実在として経験する仕方である(「世界をわがものとする仕方」ともいえる)。それゆえ、このような理解はわれわれの存在全体に関わる。存在全体とは、身体能力や技能、価値、気分や態度、すべての文化的伝統、言語共同体との結びつき、美的感受性などのことである。また、非客観主義における理解とは、われわれが身体による相互作用、文化制度、言語的伝統、そして歴史的文脈を通して世界に位置づけられる仕方でもある。こういったものが混ざり合って、現にある通りのわれわれの世界を現出させているのである。(5.2と5.3で触れることになる、)イメージ・スキーマとその隠喩的投射はこの「混合」がもつ原初的なパターンである。

.4 身体
非客観主義において、身体は人間の理性、思考などにおいて中心となるものである。理性の営みは、身体によって可能にされるものとされる。人間の理性は、人間という生物体、ならびにその生物体としての個人的、集団的経験に寄与する、「すべての事柄の本質」から生じてくるのである。(「すべての事柄の本質」には、それが住む環境の本質、その環境の中でそれが機能するやり方、その社会的な機能の本質などが含まれる。)また、思考も身体性と関わるものである。われわれの概念体系を構築するのに用いられる構造は、身体的な経験に由来するものであり、それとの関連で意味を生み出す。そして、われわれの概念体系の中核となる部分は、知覚や身体運動、身体的、社会的な性格の経験といったものに直接根ざしている。
このように、身体は人間の理性、理解、思考などあらゆる側面において、中心となるものである。



  客観主義と非客観主義が共有するもの(基礎実在論)
 ここまで客観主義と非客観主義を対比させてきたが、両者が共有している考え方がある。それは基礎実在論と呼ばれ、基礎実在論は少なくとも以下のような特徴を持つ。
-人間にとっての外界と人間の経験から成るような、現実世界というものが存在する
-人間の概念体系と、現実の他の諸側面との間の何らかのつながり
-内的な整合性だけに基づくのではない「真理」の概念
-外界についての確実な知識の存在
-どのような概念体系の間にも良し悪しの差はない、という見解の拒否 



4 客観性
客観主義において、客観性とは、物事を神の視点からよりよく見るために、主観的、身体的な側面の全てを排除することを意味した。それに対して、非客観主義では、客観主義における神の視点というものを否定した。けれども、これによって客観性ということが不可能になるわけでも、価値がなくなるわけでもない。非客観主義において、客観性の内容は、次の2点であるとする。
(a)自らの視点をいったん離れて、他の視点、それも、できるだけ多くのほかの視点から状況を見ること。
(b)直接的に有意味なもの-すなわち基本レベルの概念とイメージ・スキーマ的概念(下記で説明)-と、間接的に有意味な概念とを区別できるということ。
 客観主義が、「神の視点が存在し、人間はそれに近づくことしかできない」と考えるならば、客観主義は、他に考慮に値するような概念化の仕方は存在しないと考える立場を取ることになる。よって、客観主義の立場を取っていては、客観性そのものが不可能になると非客観主義者は言う。




5 カテゴリー
客観主義、非客観主義どちらの見解にあっても、われわれが経験に基づいて意味づけする主なやり方として、カテゴリーの形成といったことが取り沙汰される。客観主義的見解では、カテゴリーを特徴づけるに際しては、(1) カテゴリー形成を行っている生物体の身体性といったものは無関係であり、(2) 文字通りの形で行われるものであって、「カテゴリーにとって何が本質であるか」に関してはいかなる想像的な仕組み(メタファー、メトニミー、イメージ)が関与してくることはない、とされる。一方、非客観主義では、われわれの身体性に基づいての経験やわれわれが想像的な仕組みをいかに使用するかということは、カテゴリー形成に中心的な役割を果たすものとされる。
伝統的な見解である客観主義は、2000年にも渡る哲学的考察から生まれてきたものである。この見解今でも多くの客観主義者たちに信じられているが、その理由は以下の2点である。(1) 単にそれが伝統的に存在してきたというだけのこと、また(2) 伝統的な見解の中の正しい部分は保っておき、他方新たに修正された代案が、最近に至るまで存在してこなかったことである。ここで言いたいことは、カテゴリーに関して共通の属性を基盤としているとする古典的見解が全面的に誤りである、ということではない。全面的に誤りではないが、しかし、それはカテゴリー化全体から見ればほんの一部分にすぎない。プロトタイプ理論というカテゴリー化の新しい理論が登場し、それによって人間のカテゴリー化は、はるかに広大な原理に基づいていることが明らかになったのである。プロトタイプ理論では、カテゴリー化は、一方では人間の知覚、身体活動、文化の問題であり、他方ではメタファー、メトニミー、心的イメージの問題として捉えている。
 人間のカテゴリー化の体系に繰り返し現れる一般原理には、次のようなものがある(ここではいくつか省略されている)。
  -中心性   : カテゴリーの基本的成員と呼んだものは中心的である。例えば、「鳥」というカテゴリーの中心にはスズメやツバメなどが当てはまる。
  -連鎖    : 複合的なカテゴリーは連鎖によって構造を与えられている。すなわち中心的な成員が他の成員と結びついて、後者はさらにまた他の成員と結びついて、という具合に。例えばヂルバル語では、女性は太陽と、太陽は日焼けと、日焼けはヘアリー・メアリー・グラブ(地虫の一種)と結びつくため、これらは同じカテゴリーに入っているのである。
  -経験領域  : 基本的な経験の領域というものがあり、中には各文化に固有のものもある。このような経験の領域によって、カテゴリー内の連鎖を構成する連結線が特徴付けられる。
  -共通性の欠如 : 一般的に、カテゴリーというものは共通の特性によって規定されなくてもよい。われわれは例えば女性、火、危険なものに共通点を見出すことができるが(どれも恐ろしい、など)、ヂルバル語話者がそれらに共通点があると思っているなどと考えるべき根拠は何もなく、実際に彼らは共通点があるとは思っていない。


.1 プロトタイプ
 ここでは、プロトタイプに関して、その「基本レベル」と呼ばれるものをみていく。
例えば、英語学習の初期段階において、mammalpoodleではなく、dogという単語を習う。これはdogが人間にとって最も理解しやすいレベルであるからであり、それを基本レベルと呼ぶ(mammalは上位レベル、poodleは下位レベル)。Rosch et al(1976)は、基本レベルを、カテゴリーの成員が同様に知覚される全体的な形状をもつ、もっとも高いレベルである、などの特徴をもつとする。基本レベルのカテゴリーは、以下の4点(知覚、機能、コミュニケーション、知識の組織化)において規定される。


知覚    : 全体的に知覚された形状;単一の心的イメージ
機能    : 一般運動プログラム
コミュニケーション: もっとも短く、もっとも一般的に使用されて文脈的に中立的な語であり、子どもに最初に習得され且つ最初に語彙目録に登録される。
知識の組織化  : カテゴリーの成員のほとんどの属性はこのレベルで蓄積される。


基本レベルのカテゴリー化についての研究は、次のようなことを示唆する。(1) われわれの経験が、基本レベルにおいて、概念形成以前に構造化されている。また、(2) われわれは、ゲシュタルト的知覚、身体運動、そして豊かな心的イメージの形成を通して、現実世界の事物における「部分と全体の構造」を取り扱うことのできるような一般的能力を持っている。これによって、われわれの経験に概念形成以前の構造が与えられるのである。われわれの基本レベルの概念は、その概念形成以前の構造に対応する。


.2 イメージ・スキーマ
身体化された理解を説明するために、イメージ・スキーマと隠喩的投射は欠かせないものである。.3で後者を述べることとして、ここではイメージ・スキーマを扱う。
まず、イメージ・スキーマとは、われわれの知覚的相互作用と運動プログラムに、繰り返し現れる動的パターンであり、これによってわれわれの経験に首尾一貫性と構造とが与えられる。われわれの身体の運動、対象の操作などには、繰り返し現れる型が伴う。こうした型がなければ、われわれの経験は混沌としたものになってしまうのである。例えば、垂直性スキーマは、われわれが経験から意味に満ちた構造を取り出す場合に、上-下(up-down)という方向付けを用いる傾向があることから創発する。われわれは毎日垂直性に触れており、例えば樹を知覚したり、立ち上がったり、子どもの身長を測ったりする。この経験に基づき想像力に媒介されたイメージ・スキーマ的な構造が、意味と合理性にとって不可欠の要素なのである。イメージ・スキーマのうち、重要度が高いとみなす(Lakoff 1987, p.255)ものには、容器/力の可能性/道/部分-全体/バランス/中心・周縁などがある。


.3 隠喩的投射
ここでは、イメージ・スキーマに続き、身体化された理解を説明するために隠喩的投射の重要性を簡単に説明する。
 隠喩は理解にひろく浸透した様式であり、主要な認知的構造の一つである。これによってわれわれは首尾一貫した秩序ある経験をもつことができ、抽象的理解を組織できる。イメージ・スキーマによって構造化されたものを、隠喩によって抽象的な領域へ投射することができ、このようにしてわれわれは理解を行うのである。例えば、”more is up” という隠喩的投射の方法で考えてみる。われわれは量というものに関して、垂直性スキーマを用いて”Prices keep going up.”などということが出来る。これはわれわれが、more(増加)はup(上)に方向付けられたものとして理解している事実を示唆している。



<今後の展望>

 今ほど、われわれは隠喩的投射よって抽象的理解を行っているという説明を行いましたが、ここで出発点であった「腑に落ちる」という表現に焦点を当てたいと思います。この表現には、”unknown is up; known is down”という隠喩的投射が用いられており、そこには”understanding is grasping”という経験基盤が関わっています。今後、私がこの観点を念頭に隠喩的投射についてもっと知り、非客観主義の立場から、人間の理解に関する身体性について研究を進めることが必要だと感じております。
本研究では、われわれを取り囲む「環境」に注目します。そう考える理由は、Lakoff(1988)において「理解とは、われわれが身体的相互作用、言語的伝統、歴史的背景、そして文化的制度を通じて、いかに有意味に世界に位置づけられているかということである」とされ、私が「腑」という言葉をそういった「環境」(身体的相互作用、言語的伝統、歴史的背景、そして文化的制度)からの切り口で探っていけないかという展望を持ったからです。日本人、あるいはある文化圏の英語話者が、どのような「環境」の中にいて、それがどのように言語に現れているのかということを「腑に落ちる」あるいは”to go down with”といった表現を中心に明らかにしていきたいと思います("to go down with”には身体部位の表現がないので、身体部位を用いた言語表現を見つけなくてはなりません)。
しかしながら、未だ研究の明確な方向性や具体性は定まっていないです。今後さらに、理解の身体性、日本人の「腑」に現れる「環境」といったことを、私自身が本研究の基盤として深めていかなければならないでしょう。

以上



2013年4月21日日曜日

A Warrior in Elemental School Education
―菊池省三先生のセミナー・懇親会に参加して―


今日は「ほめことばのシャワー」で有名な菊池省三先生にお話しを伺いました。

ご存知の方は多いかと思いますが、菊池先生の簡単な紹介をしておきます。先生は北九州市の小学校教員で、荒れているクラスを「ほめことばのシャワー」代表される独自の方法で、見事に立て直すことで有名です。何度もテレビ・新聞などのマスメディアに取り上げられ、今最も注目されている教育者の一人です。

そんな菊池先生のセミナー・懇親会に参加させていただいて多くを学び、そこから自分が考えたことを含めて、キーワード毎に今回は書きたいと思います。



☆「ほめことばのシャワー」
 
 先生は毎日、朝の会で「ミニライフ・ヒストリー」、帰りの会で「ほめことばのシャワー」という活動を行っています。
 
 まず前者の「ミニライフ・ヒストリー」とは、一人が前に立ち、その子に向かってクラスの全員がいろいろな質問を展開していくという活動です。例えば、「最近、自分を笑顔にしてくれたことは?」「自分が人を笑顔にするのと、自分が笑顔にされるのとどっちが好きですか?」といった質問をしてきます。何のためにそのような活動をするのでしょうか。それは、私は「他人を思いやることのできる子どもを育てること」であると考えます。

(実は、上記の例のような質問事項は、菊池先生が2年間かけて、徹底的に子どもの人間性を高めた段階で出る質問なんです。上記のような質問ができる子は、本当に素敵です。そういう子に変えることができる菊池先生のすごさが、上記の子どもの質問から垣間見えます。肝心な、「菊池先生はどういう指導をしてるの?」というのはご著書『「ことばのシャワー」の奇跡』などをご覧下さい。)





そして後者の、帰りの会の「ほめことばのシャワー」は、一人の子に対してクラス全員が、その子が一日でしたいいところ・成長したところをほめるという活動。一回に約30人の友達からほめことばを浴び、それが積み重なると1年間で4500のほめことばのシャワーを浴びるらしいです。それで自分に自信がつかないわけはないですよね。
 
 以下には、「なぜ先生は子どもにほめことばを浴びせるのか」ということに関して、私の見解を述べます。
 
 先生は、「価値語」と呼ばれる、こどもたちが変わるために必要な「教訓」をもっています。「教訓」は、人生の先輩として、教師が生徒に伝えるべきものです。例えば、相手を思いやることは大切だよ/いじめは絶対にいけないよというものから、前を向いて座るんだよ/姿勢をよくしなさいといったことまで様々です。しかし、先生がもつようなこどもは、始め髪が明るかったり、自分の立場を保つのに友達を無視したりするような子たちです。そのような「素地」もなっていない子どもたちに、いくら教訓や指導を諭しても、こどもが聞く姿勢を持っていないのですから効果は発揮されません。それどころか先生との溝は深まるばかりです。
  
 そこで、菊池先生はまず信頼関係を築こうとします。それは、子どもを見て、ほめれる点を見つけてほめることです。そしてとにかくほめ、また仲間からも互いにほめさせ、それが「自分はみられている、他人がみてくれている」という安心感に繋がります。あるいは、仲間の良い点を探す訓練になります。そうなったら、いじめなどは起きませんよね(なぜならいじめは、他人の欠点を責め立てるものだからです)。
  
 そうして子どもたちに「素地」が出来た段階で、少しずつ人間を変えていきます。しかしもちろん突然子どもが聖人のようになるはずもなく、そこで先生は「ほめことば」を使います。「価値語」と一緒にほめことばを添えて、子どもに提示するわけです。例えば、「何ページまで音読し終わったら座りなさい」という指示を与えたとして、みんなが音読を終えて座った後でも、一人の子が音読を続けたとします(実はみんな音読が残ると恥ずかしいから、読み終わっていないのに座っている状況)。そこで先生はすかさず、その子を相当ほめます。そこで何が起こっているかというと、「自分に正直にいることはすばらしい」というメッセージが子どもに暗に伝わるわけです。もちろん明示的にことばで諭したりもします。先生はそれに留まらず、「一人が美しい」という表現にその出来事を表し、以後そのクラスで「今の行動(例えば誰も立候補しない委員長に立候補すること)は『一人が美しかった』ですね」とするそうです。クラスでの新語を作っています。(私はここに感動しました。。。)
 要するに、先生が子どもをほめる理由のひとつは、価値語を添付して子どもに伝え、成長させるためだと思いました。

 

☆教師の精神~戦う教師・菊池省三~

 先生の指導理論・方法に関しては、興味のあるかたは先生のご著書を読んでいただければと思います。私は小学校教師希望ではありませんが、そこから学ぶことは山のようにありました。
 ここからは、懇親会を通して菊池先生から学んだ、教師としてのあり方を書かせて頂きます。

 題名にもつけましたが、正直言って菊池省三という方は戦士(Warrior)です(笑)
 なぜか。
 まず、先生のいわゆる「荒れている子どもたち」との戦いは、4月の離任式(あるいは入学式)開始と共に合戦の合図がなります(こんなこと書いたら怒られそうですが。。。)。先生はそこで先手を打ち、ヤンキース軍団の4番バッター(笑)から順にほめれる点を見つけます。そして先制攻撃をその4番バッターから5番バッターへと順に仕掛けていくわけです。そうして先手を打ち、少しずつ信頼関係をつくってから人間を変えていくそうです。
 あるいは、子どもを叱るときは 教師と他の子ども 対 叱られる子ども という構図で叱ります。一見聞こえは悪いですが、教師が1人だと負け戦になり、効果は発揮されないからです。私が尊敬する広大の某Y教授はそれを「兵法だ~これこそ兵法だ~」とおっしゃっていました(笑)そういう風にして、大好きなクラスの子どもたちだからこそ日々戦っているんだと思います。

 そして何より先生のすばらしいのは、「上」と戦う姿勢です。私が懇親会に参加して得たもっとも価値のある学びは、ここです。
 
 菊池先生くらい独自な教育をされていると、制度だとか決まりだとか...そういったものを片手に持つ権力者や評価者(教育委員会とか校長とか)にとっては面白くないそうです。だから彼らはそういった教師を抑えようとしてきます。現場の現状もしらないで、理論だとか風習だとかを押し付けます。それに抗うのは、相当にしんどいもので、だから多くの教師はそういった評価者の目を気にして自分が正しいと思うものから目を背け、見(え)ないようにしています。それは先生に怒られまいと先生ばかりを気にする子どもと何ら変わりません。
 権力者に迎合するのではなく、抗って自分のスタイルを作っていき、それを維持しているのが菊池省三先生です。その姿勢がいずれはとても大切になることを学びました。では彼の原動力は何かというと、それは週に1度の教師の私塾とのこと。金曜の晩から土曜の朝方までぶっ通しで、毎週教育論を語りあうそうです。そこでできた仲間が先生の原動力の一つであるそうです。*1
 
 私も将来、評価者に迎合せず、自分の教育観をしっかりと見つめていける教師になるべく、そういった私塾も考えていきたいと思うようになりました。

 
 以上、最後は菊池先生の「ほめことばのシャワー」とは大きく外れてしまいましたが、セミナー・懇親会の感想でした。一級の達人にお会いすることが本当に自分の身に為ります。




 *1 「原動力」について
    1、上述の毎週の教師の私塾
    2、評価者からの圧力に対する反抗心。「こいつめ、なにくそっ!」という怒りが原動力に。
    3、「憧れに憧れる」
       やはり教師たるもの、より良い授業を求め続けることが原動力となる。いい授業をみたり、人に会ったり、本を読んで研鑽を積み続けることが最も大切である。教育者で「化け物」がいれば会いに行って、時にはそれが大切なつながりとなる。フットワークは軽く。




2013年4月11日木曜日

寺島先生の懇談会に参加して②


前回の続きです。
今回もテーマを1つに絞って書かせていただきます。

「外国のSLAの研究を勉強してばかりいるけど、そろそろ日本人による日本人のための英語習得法を積み重ねていかないと」

 私はそれほどSLAを勉強してきたわけでなく、それを日本人が懸命に勉強することに対して批判するのは100億万年早いですが、この寺島先生のお言葉にはハッとさせられました。

 寺島先生がおっしゃるには、まず日本と外国では英語学習の環境が違う。日本人は英語を学習言語としてEFLの環境で勉強しています。教室から一歩でれば英語をしゃべることなど正直言って皆無であり、寺島先生の立場ですら日本で英語を話す機会などほとんどないそうです。それに対して、アメリカやイギリスなどの国では生活言語としてESLの環境で英語学習を行います。そのような国が発達させてきたSLA研究を環境の違う日本の英語教育に導入して果たして効率的だろうか、と先生はおっしゃっています。
 
 確かに、日本人が日本語で積み重ねてきた日本語教育は、日本人が英語で書いてある外国の理論や研究を取り入れながら(江戸時代から)発展させてきた英語教育よりも、進んでいると言ってもなんら反論はありません。先生いわく、国内には様々な優れた実践があり、それらにもっと注目して「日本人による日本人のための英語教育」を積み重ねていかなければならない、とのことでした。先生も高校教師時代、大西忠治や西郷竹彦など国語教育者の実践を大いに参考にし、読み漁ったそうです。

 私も個人的に、国語教育の授業を受けたときに、国語教育が英語教育よりも進んでいるなあと感じました(勉強不足です、あくまで、そう感じました)。今後は国語教育の膨大な研究を英語教育に応用していく必要性を強く感じています。言語教育というカテゴリでは同じ分野ですしね。

 まずは寺島先生が大西忠治の影響を受けて作られたという「3読法」を勉強してみたいなあと考えてます。

 

2013年4月3日水曜日

寺島隆吉先生を囲んでの懇親会に参加して


 
 3月29日、柳瀬陽介先生が開催した「寺島先生を囲んでの懇親会」に参加してきました。
 
 懇親会の様子としては、参加者は10人程度で、
 図書館のグループ閲覧室(1.5h)→大学内カフェ(1h)→大学近くのイタリアンレストラン(2h)→寺島先生宿泊のホテルロビー(1h)でお話をたっぷりお聞きすることが出来ました(最後のロビーでのお話は、私が先生をお送りした際に、先生のご好意で急遽設けて下さったものです、大変感謝しております)。



まずは
寺島隆吉先生のご紹介
1944年7月12日生まれ。東京大学教養学部教養学科(科学史科学哲学)卒業。英語教育応用記号論研究会(JAASET、略称「記号研」)代表。高校教諭(英語)として在籍。以下、詳細は寺島研究室参照。

著書:『英語教育原論』(明石書籍)、『英語教育が亡びるとき』(明石書店)、『英語にとって文法とは何か』(あすなろ社)、『英語にとって教師とは何か』(あすなろ社)など多数。

訳書:『チョムスキー21世紀の帝国アメリカを語る』など多数。



 
 では以下、懇親会のまとめと感想です。
 ここでは、先生の言葉を抜粋して、それを説明する形をとり、短めにまとめるよう努力します。

 

「大切なのは、本当に必要になったときに役立つ英語力、つまり “幹” を教えることです。」

 
 これは私が「生徒にどういう英語力を最優先としてつけてあげるのですか?その最優先で教える内容を教えて下さい」という質問に答えていただいたものです。
 
 
 まず私がこの質問をした背景を説明します。
 英語教師は大変な状況におかれながら生徒の英語力を伸ばそうと努力しています。
 まずは40人学級という状況。海外では外国語学習に関して、20人クラスで「多人数クラス」10人クラスで「少人数クラス」と呼ばれています。それを考慮すると、いかに日本人英語教師1人がみる生徒の数が多いか、おわかりになるでしょう。こんな状況では特にスピーキング、ライティング指導などまともに出来るはずがないです。まあ、やらないといけないんですがね。(苦笑)
 次に、言語的距離です。英語と日本語というのはかなり言語的に遠いんですね。ヨーロッパ人が英語を学習するのは、私たち日本人が沖縄弁や東北弁を勉強するようなもの、と似ています。しかし日本語母語話者が英語を学ぶのは、容易なことではありません。文科省のいうような、「ディスカッションを行う」「概要や要点をとらえたりする」、そして「これらはすべて英語で行う」を6年間で達成しろ、というのを真面目に受け止めたらどうなるでしょうか。まあ、やれと言われるんでしょうが。(苦笑)
 そして最後に、受験です。今のような激しい競争社会となった日本において、受験というのは生徒にとって最大の課題となっています。また、教師も「私のクラスは○人○○大学に受かりました」「テストの平均点はこれだけとれました」という風に、やはり競争社会で生きています。そのような状況で教師自らが生徒に「これだけはつけてあげたい」「こういうことを子どもたちに伝えたい」という思いをどう達成するのでしょか。

 上の3点に加え、校務分掌、部活指導、生徒の服装指導。(寺島先生著『英語教育が滅びるとき』参照)そのような状況において、そして泣き言など言っていられん立場を踏まえて、生徒に英語力としてどのようなことを最優先に教えるべきか、寺島先生のお考えを尋ねたのが上記の質問です。


 その質問に対する寺島先生のご解答が「大切なのは、本当に必要になったときに役立つ英語力、つまり “幹” を教えることです。」でした。以下に、英文法指導に限定して、その要点を述べます。

・ 英文法を並べられて覚えることができるのは、大学受験で英語を必須とする生徒、忍耐力がある生徒、英語が大好きな生徒。しかし並列的に文法を教えられてもつまらない(羅列主義は退屈)。

・ そこで教師は文法の「これさえ教えれば全てに共通していく」という“幹”を見つける(知っておく)必要がある。

・ 英文法指導は、なぜそのような形態でそのような意味になるのか、という根本的な原理を教師が分かっておかなくてはならない。根本を知っているのと知らずに教えるとでは大違い。

・ 原理がわかった上で学習と指導を!

・ “幹”さえ生徒がつかめれば、あとはそこから(生徒自身が)広げていくだけ。

・ 詳しくは『英語にとって文法とは何か』(あすなろ社)参照。 (私もまだ読めていません...)


以上

 
 先生がこういうお考えをされているのも、先生は科学史、科学哲学の分野に精通しており、理系の考え方ができるからでしょう。安直な例ですが、数学の公式1つで膨大な数の計算ができます。科学分野にはある公式が全ての元である、という公式があるみたいですし(抽象的な言い方ですみません!)。その考え方を英語教育、ここではその文法指導に応用されているのでしょう。


 今回は「英語授業で最優先に教えることは何か」という質問に対する先生のお答えを紹介するだけに留まります。長くなるので...


 次回も引き続き、寺島先生懇親会で得たことを紹介させていただきます。

















 
 

2013年3月18日月曜日

こころの形成ーことばの役割とは



内臓とこころ (河出文庫) 

三木 成夫  

 …題名と表紙を一見すると、少しとっつきにくいでしょうか(笑)
 この本は、僕が「腑に落ちることば」って何だろう?と疑問に思っていたところに、Y教授がご好意で貸してくださったものです。


 ”はらわた”というキーワードから、物事を本質的に捉えています。我々の内臓ははるか大きなもの(太陽系)と共鳴しており、それが生活に表面的なものとして現れてくるという話や、幼児がことばを発することが、こころの発達とどう関わっているかといった内容です。


 「知に働けば角が立ち、情に悼させば流される」(夏目漱石)ことなく絶妙なバランスで書かれており、その理論的かつ情あふれる内容に没頭してしまう本です。
((「内臓感覚が宇宙と共鳴する」という内容は本全体にわたるテーマなのでまとめきれません。突飛な発想だ、と思われると思いますが、気になる方は本書を。))


● こころとあたま
  ・「あたま」は判断とか行為といった世界に君臨する。
  ・「こころ」は感応とか共鳴といった心情の世界を形成する。
  ・”切れるあたま”とはいうが”切れるこころ”とはいわない。”温かいこころ”はあっても”温かいあたま”はない。
  ・一言でいえば、あたまは考えるもの、こころは感じるもの。
  ・例えば、秋の情感を表す「さわやか」という言葉は、胸から腹にかけて、なにかスーッとする内臓感覚が中心になっている。これは”こころ””はらわた”で感じるもの。


● こころの形成― 子どもの”なめ廻し”

  ・子どもは舌の感覚でもって人間の「知覚的基盤」を固めていく。
  ・6ヶ月が過ぎて首が座って手が自由になると、手当たり次第にものを舐めだす。
  ・我々がコップを見て”丸い”と感じるのは、”なめ廻し”と手での「撫で回し」の記憶が混然一体となって根強く残っているから(”距離感”に関しても同様)。 


● こころの形成― 指差し
  ・”あたま”は”こころ”で感じたものを、いわば切り取って固定する作用を持っている。子どもはこの世界を”こころ”だけで感じ取っている存在だが、この切り取りと固定の”ハシリ”ともいえるのが指差しである。


● 言葉の獲得―象徴思考
  ・子どもは満一歳半になると「コレナーニ?」「コレハ?」とひたすら聞きます。それまでぼんやりとして映らなかった世界が、にわかに色鮮やかに、眼の前に迫ってくる。その一つひとつが驚きなのでしょう。
  ・子どもがみて感じ取った世界は、何物かによって留めておかなければ、宙に浮いてしまいます。これは、幼児たちにとってはそのままやり過ごすことのできない切実な問題です。そこで幼児たちが求めるものは印象です。印象という文字はものの本質を表しているように思われる。印はハンコ、象はあの朱肉に残った文様です。幼児たちは、このかたちの持つひとつの実感を求めている。ここです。つまり、彼らの求めているのはそのようなひとつの実感ですが、ここではそれを「言葉」として求めているのです。いいかえれば肉声の織り成す、そうした文様でもって、それを実感しようとしている。要するにその名称ですね。。。その名称の持つ音声の響きに、耳をそばだてているのです。「コレナーニ」「ナ・メ・ク・ジ」(いかにもナメクジらしい響きではないでしょうか)。。。
  ・この”もの”と”なまえ”の一体化した二者一組の体得―これはあの指差しから始まっているのです。
  ・大人でも珍しいものに出くわすと、思わず「ナンダコリャ!」。要するに「言葉」を求める。「なんと申しましょうか...」というあれです。




以上、本質の”内臓”の話しを抜きにしてツラツラと記述してしましました。気張ってチャッカリまとめたかったのですが、長くなりそうなのでこの辺で。

最近、英語教育についての本ばかりつい読んでしまっていましたが、こういう本は本当に面白いです。




2013年3月10日日曜日

日本人のreceived wisdom―『日本人の英語』岩波新書



The received wisdom is that the project is doomed to end in failure.”

「そのプロジェクトについては、失敗に終るのがオチだというのが定説である。」


receiveという言葉はいろいろなイディオムに使われますが、たいてい「受ける」という意味が基盤となっています。"the received wisdom"の"receive"もそうで、「(権威のあるものとして)受け入れられた知識」、つまり「一般に正しいと認められている説や論」という意味だそうです。

もっと平凡な言い方で、"the accepted wisdom"という表現もあるそうですが、前者にほうが語感としてオシャレな感じでしょうか(論文でいつか使ってみたい表現です...)。


日本人が英語に対してもつ"received wisdom"として、著者のマーク・ピーターセンは、「実は、大体のところ、一般日本人のもつ知識はほとんど間違っていないようだ」と述べています。その上で、本書で日本人の誤った英語に関する"received wisdom"を紹介しているので、それらを紹介。



日本人の英語 (岩波新書) [新書]

マーク・ピーターセン 



日本人にとっての問題点

  ・ 日本人の英文のミスの中で、意思伝達上大きな障害と思われるものを大別し、重要なものから順(descending order of severity)に取り上げてみると、次のようになる。

1、冠詞と数の意識の問題
2、前置詞句(英語には前置詞がきわめて多く、非常に微細な区別がつけられるため、トラブルメーカーになる)
3、Tense(日本語にはtense自体がない)
4、関係代名詞
5、受動態(論文で受動態が使われすぎている)
6、論理関係を表す言葉(thereby, accordingyなど、日本と英語の感覚の違いから使い方に問題が生じる)


1、冠詞と数の意識の問題

  • "Last night, I ate a chicken in the backyard."という表現は冠詞に関する代表的な誤りである。"a(an)"の使い方に対して、日本の英文法書では「名詞にaがつくかつかないか」「名詞にaをつけるかつけないか」の問題で取り上げるのが普通であるが、これは誤解を招く言い方である。
  • しかしa(an), theといった冠詞は、その有無が一つの論理的プロセスの根幹となるもので、名詞につくアクセサリーのようなものでは決してないのである。
  • 冠詞は「意味的カテゴリー」をもち、aは「共通単位性をもつもののグループから、一つの」という意味と考えてよい。名詞がaのカテゴリーに入っているとすれば、そのカテゴリーの共通単位性が必ず存在しているはずである。逆に、aのカテゴリーに入っていない名詞には、その単位性がない理由があるはずである。



2、前置詞句

  • "by" ×The cranes were observed by binoculars. (双眼鏡観察された)なぜ誤りかというと、"by"は動作主を導くからであり ○The cranes were observed (by us) with binoculars.が正解。
  • "in"と"on"の一貫の論理→"in"は、"on"は表面。 例えば、"He build a second home on the ocean in Hayama." 別荘は、海に対して単に臨んでいるので、"on"となる。
  • ではなぜ"get in the car"に対して"get on the train"というのか。ここでも論理は一貫しており、実はこれは乗る人と乗り物との運転との意識の上での距離の問題である。つまり、airplaneやship、busに乗る場合、乗る人は一人の乗客にすぎず、運転には特に影響を及ぼさない。よって運転と自分との間のつながりが表面的であるため、"on"が使われる。
中学生のときから私が抱いていた一つの疑問が解決しました。前置詞の論理の一貫性は信頼できますね。
  • "out"は三次元関係を表し、動詞に「立体感のあるものの中から外へ」、"off"は二次元関係を表し、動詞に「あるものの表面から離れて」という意味を与える。例えば、"Clean out your desk !"(机の中をかたづけなさい。) "Clean off your desk !"(机の上をかたづけなさい。)となる。
  • "over"は回転の中心となる軸が水平で、"around"はその軸が垂直である。寝返りは"turn over"でバレエのような一回転は"turn around"である。他にも、"get over A"は「Aを飛び越える」で、"get around A"は「Aをかわす」。
イメージで捉えると前置詞ってこんなにも簡単で面白いんですね。将来生徒に伝えたいことの一つです。(前置詞、もっと勉強しないと...)



3、Tense
  • 点と線で捉えることが大切。詳しくは以下の本を(笑)


表現のための実践ロイヤル英文法 [単行本]

綿貫 陽 マーク・ピーターセン  

Tenseに限らず、英文法を非常にわかりやすく、一貫性をもった説明で紹介しています。英語教師になる身として一読はしておきたいです。




4、関係代名詞
  • より英語らしい、自然な流れをもつ英文、あるいは、著者の考えがより洗練されて聞こえる英文を書くために、関係代名詞がかなり役にたつ。その際に気をつけることは、どの語が先行詞かを明確にすること、つまり先行詞と関係代名詞が離れすぎないようにすることである。


5、受動態
  • 日本の論文には受動態が多すぎる。英米の論文の書き方を倣ってこの流れが起きているが、今は英米で受身の文を排撃する動きがある。
  • 受動態の文の中には主語をぼかして責任逃れをしている印象を与えてしまうものもある。
  • 受身の文のもうひとつのマイナス点として、主語とその述語が離れすぎてしまいやすいという問題がある。例えば"In 1952 the invention of a perceptual motion machine, which has been the dream of inventors for centuries, by a farmer in Gumma Prefecture using sake lees as a lubricant, was reported by him."(1952年に、酒かすを潤滑油として使った群馬県の農民による永久運動機械の発明が、これは何世紀にもわたって発明家たちの夢であったが、発表された。)のような、いわゆる超ひねくれ文があるが、以下のように直せばすっきりする。"In 1952 a Gumma Prefecture farmer reported his invention, using sake lees as a lubricant, of a perceptual motion machine, which has been teh dream of inventors for centuries."



6、論理関係を表す言葉
  • 日本の論文で愛されている「したがって」に関して、因果関係を示す際に誤りがある。日本人の書いた英文には"Accordingly, ..."や"Consequently, ..."が圧倒的に多く、その多くは不自然な使われ方をしている。accordinglyは"in agreement with""in conformity with"(…と一致して;…に応じて)という意味が強く、「ある状態に合わせて何かをする」場合に使う。consequentlyは「結果」や「帰結」の意味合いが強く、「ある状態の結果として、何かの状態となる」場合に使う。以下の英文はその例である。"Most of the applicants have almost no practical experience with any language other than Japanese, and consequently, it has been necessary to simplify the foreign language portion of the test accordingly."(応募者の大部分は日本語以外の言葉に対しての実地経験はほとんどないので、それだけ試験の外国語科目をやさしくする必要がでてきた。)



以上簡単なまとめでした。日本人にみられる誤りを挙げた上で、それに関係する英語使用者との意識の差や、前置詞の一貫性、それぞれの単語がもつ性質を詳しく述べながらわかりやすく説明しています。

『続日本人の英語』、『こころに届く英語』をマーク・ピーターセンが続編としてだしているので、ぜひ読んでみてください。私もまだ読んでいないので読んでみます。








もし英語の性質をもっと詳しく、一気に知りたい方はさきほど挙げた『表現のための実践ロイヤル英文法』をオススメします。








2013年2月26日火曜日

論文とは何か?-『論文の教室―レポートから卒論まで―』まとめ



論文ってこんな風に書くんですね。
「論文」なんておカタいことばがついているのにかなり楽しく読めました。「論文」を書く意味なんて考えたこともありませんでした。(苦笑)

卒論を書く学部生、修論を書く院生とも一度読むべき論文のHow to本です。



○ 論文とはどんな文章か。

 論文って何でしょう(卒論を書き終えたぼくが言うのもかなり変ですが)。
読書感想文や手紙、小説と、具体的にどこがちがうのか。

(1)論文には問いがある。
 「なぜ・・・なのか」「われわれは・・・すべきか」「・・・と・・・の違いは何か」といった明確な問いをたて、それを解決することを目指す文章である。
 ex) 動物を用いた実験を認めるべきか。

(2)論文には主張がある。
 問いがあるところには答えがある。論文を書くために必要なのは、自分の主張を自分の責任で引き受ける勇気、つまり「何事かを言い切る勇気」である。
 ex) 動物実験には反対である。

(3)論文には論証がある。
 論文には、自分の答えを読み手に納得させるための論証が必要である。論証とは、「自分の答えを論理的に支持する証拠を効果的に配列したもの」だ。
 ex) 動物実験は数多く行われているが、その多くは不必要な実験である。

 そして論拠にもまた論拠が必要。
 ex) 今動物実験は○○という頻度で××のために行われているが、□□といった事実があり...



○ 論文を書くときに絶対に忘れてほしくないこと

 ・ 「曖昧さ」と「はぐらかし」は厳禁
    問いも答えも出来るかぎり明確に。
   
 ・ 「問い+答え+論拠」以外のことを書いてはいけない
    事情や言い訳、感想やエピソードはいらない。

 ・ 結論の正しさにこだわるな。重要なのは論証の説得力だ
    論文の評価のほとんどは、論証が正しくなされているかによって決まる。
 
 ・ 論証は第三者にチェック可能なものでなければならない
    筆者の考えた道筋を読み手が自分でたどってチェックできなくてはならない。つまり、どのような素材(調査、統計、テキスト、先行論文)を遣ったのかを明示し、どこで手に入るのかなどを第三者がいつでもチェックできるようにする必要がある。引用の仕方や参考文献の挙げ方など、うるさいしきたりがあるのはこのためなのである。





この基本を忠実にまもりながら、常に意識して論文を書きたいです。

その他、アウトラインの作り方(論文作成の上でアウトライン作りは必須事項)、論証の仕方、パラグラフ・ライティングの仕方などが、とてもわかりやすく、楽しめるように書かれています。




















2013年2月25日月曜日


柳瀬先生のブログ記事から学ぶ論文構想・作成の留意点
卒業論文の反省を踏まえながら


Abstract
筆者は修士論文の構想、執筆を今後2年間で行っていく。その際の留意点としてはどういったものがあるのだろうか。「論文」というものの意味や性質を正確に理解していないまま書き終えてしまった卒論の反省を踏まえて、今後論文作成の際に持っておくべき最低限の知識を書いた。今回、柳瀬陽介先生のブログ記事を読んで、①研究テーマ設定では好奇心を探ってそれを追求していくこと、②論文作成ではとにかく読者を意識すること、③そもそも論文を書く意味として作成者の知的成長が図られていること、などが分かった。研究者として、以上の点を常に留意して合理的に論文構想・執筆を行っていくべきである。

1テーマ設定
 「表の方法」というのは、先人たちの学術遺産を最大限利用して、最短時間でそのテーマに関して最先端の知識を得るものである。研究方法も整備されているので、類似したやり方で、研究対象などを少し変えれば研究として成り立つ。しかし、これまでの研究論文が自分の真の興味・関心と一致していないことは往々にして起こりうるので注意が必要である。自分の心身の深いところで予感している面白さを捉えきった論文は、あまりないのだ。なぜなら、英語教育研究・応用言語学の歴史が大変短く、かつ対象・関連領域は果てしなく広いからである。過去の研究に「乗っかる」ようにして研究とする際にはこのことに注意する必要がある。
「乗っかる」だけでなく、自分の直感や情動、感情に忠実になるやり方もある。それが「裏のやり方」である。学会の流行から遠ざかり、これまでの人生で疑問に思ったことに耳を澄まし、関連するあらゆる本を読んで考えを具体的に言語化、体系化していき、その分野に無関心な査読者にも読んでもらえるような説得力を持たせなければならない。このように労多くして世俗的見返りがほとんど無いのがこのやり方で、自己欺瞞に陥らずに自分と世界に対する正直を貫き通すことが求められる。

.2好奇心からのスタート
 私が卒業論文でとったやり方は、ほぼ完全に「表の方法」であった。卒論では『英語教科書の談話分析』(根岸, 1990)に乗っかって研究を進めたが、そこではPomerantz (1984) の会話の談話分析方法を日本の教科書分析に応用しやすいように工夫されており、それを用いてスムーズに教科書分析が進んだ。
 「英語教科書の会話の談話分析をしてみたい」と思って研究を始めたはずなのだが、どうも卒論を書き終えてもうまく達成感が得られなかった。今思えば、それは自分が真に持つ興味からスタートしていなかったからだろう。スタートから完全に「表の方法」で卒論を終わらせてしまったのである。もちろん「談話分析」という分野に興味を持ったからこのようなテーマにしたわけだが、それは自分の直感や感情に従ったのでなく、「論文を書きやすそう」「それっぽく完成しそう」という研究者の端くれとしても恥ずかしい考えがあったことは、正直否めない。
 この反省を踏まえて、研究のテーマ設定をする際に重要視したい点は、好奇心からスタートする、ということ。上述の「裏のやり方」が私の研究者としての理想であるが、完全にそのやり方で研究するには知識も覚悟もまだ全然足りない。だから、スタートくらい研究の流行や既製のテーマから離れて、自分の人生経験にもとづいて直感を第一に大切にしながらテーマ設定を行いたい。

 好奇心からスタートするには、他を排除した自分の興味・関心に耳を傾けなければならない。これは容易なことではない。例えば「談話分析がしたい」はそれではない。なぜなら、上述したがそれは「論文が書きやすそう」「論文っぽい」と考えており、「卒業する」という外発的動機や「先生や友人、読者に認められたい」という交換物を求めた、資本主義の考えから来ているものだからである(こう言いつつ、資本論については未知なので詳しく勉強し直します)。それらの要因を完全に排除して興味の直感を探ることは容易でなく、おそらく頭で考えるだけでは達成し得ない。そこで手で考えることが必要になる。
 人間が頭の中で考えるには限界があり、特に私のような凡人(以下)ではたちまち要領オーバーになる。だから自問や反省を繰り返しながら紙面上、いや整理などを考えるとパワーポイント上で思考を絞り出していく。あるいは良い友人に聞いてもらうのも有効な手段であり、「つまりどういうこと?」「それはなぜ?」「それは○○も意味すると言っていいの?」という風な質問をパワーポイント上で答えたり整理したりする。
このように、手で、あるいは口で考えるようにして自身の興味・関心を整理し、徐々に言語化、体系化していくことが論文執筆の第一段階であろう。

2論文作成段階~Readers Friendly
 卒論を書く前は、「論文ってのは、いかに難しい言葉を使って小難しく書くかが勝負なんでしょ」ということを、戸田山和久の『論文の教室』に出てくる“作文ヘタ夫君”のように、頭の隅でほんとうに認識していた。「難しく書く練習」や「頭良さそうな文章」と表現してもいいかもしれない(今思えば本当にヒドい)。しかし、もちろんそういった考えは間違っている。むしろ論文というものに対して逆の認識、失礼な認識である。ブログ記事を読むに連れそのことを再確認、そして認識を深めることができた。
 論文とは、本当は簡単なはずのことが小難しく書かれた面白くない書き物ではない。読者にわかりやすく面白く、そのトピックに関しての知的納得を与えるエンターテインメントである。高度で複雑な内容を<読者に親切に>書くのである。よって、知識や興味のない人も内容をきちんと概略することができ、専門家たちにはとても深い内容が短時間で伝わる。
 そのため論文には細かなルールのようなものが多くある。例えば、パラグラフライティングの原則の徹底、アウトラインの明確化、hookbridgeの使用、参考文献の書き方の作法など。これらは「うるさい作法」などではなく、<読者に親切に>なるためのルールである。だからこの作法を守れば、自然と<読者に親切に>なれるのである。
 ここで<読者に親切に>ということを、もう少し具体的な言葉で以下のようにまとめられたものを書いておく。
つまり、あなたが自分の知的貢献でその人の役に立つことができると想定している人(「相手」)がまったく知らなかった・十分に理解していなかった知見を示し(「発見」)、中心概念はもとより、派生概念も明確に定義することで、その内容を整理して精確に伝え(「説明」)、主張を裏付ける、妥当性のある証拠や理由を提示(「立証」)し、読者の読み続けようという気持ちを維持し高めるための、適切な工夫をしながら、その問題関心に忠実にまっすぐに最短距離で論証を行うこと(「相手にとって最も親切な形で提示」)が大切であると述べている。
このように、<読者に親切に>とは、知的納得のために親切ということ。知的納得は読者が必要にして十分な情報を、整理された形で効率的に提示された上で、重要な判断は読者自身がくだせるようなかたちで論考が進められることによって得られる。読者はその思考と判断の過程を楽しみたいのである。そういった意味で論文はエンターテインメントなのだ。

3論文を書く意味とは~知的側面から~
そもそも論文は何のためにかくのだろう?卒業するため、修士号をえるためもちろんそれは大切な目的のひとつではあるが、おそらくそういうことではない。今回は自らの知的面をたかめ、思考をマネジメントするための訓練という側面から簡単にまとめる。
 The Craft of Research は、論文を書くことで以下のような利点があると述べている:
・自分が読んでえた知識を記憶にとどめておける。
・読んだことに関するより深い理解につながる。よってより深い議論ができる。
・自分の考えを客観的に吟味できる。
知的側面においては論文を書くことが非常にいい訓練になり、この訓練によって後の職業分野においてもきっと役立つ。また、北欧の大学は論文にかんして以下のような認識を持っている:
このように、論文を書くことで知識を記憶し理解するだけでなく、思考する訓練にもなるため、論文に準ずるような文書(例えば企画書など)を読んだり自ら作成したりする機会のある、現代の社会で活躍できる人材に近づけるのである。

4まとめ
 「大学生になった、4年生になった、卒論を書かないと卒業できない、じゃあ書くか」、「院生になった、英語内容学を研究したい、最後は論文にしないといけないらしい、じゃあ書くか」論文を人生で初めて書く者は、大抵の場合このような状況で書き出すのであろう。私も卒論においてそのような考えに支配されながら、研究と執筆を行っていたと思う。
 しかし上述してきた通り、その考えはある意味誤りであるし、知的欲求を求めるべき大学生、大学院生として恥ずかしい考え方であると私は思う。論文を書くことで知識を記憶し、深く理解できる。客観的に自分の考えを観察し、紙面上、あるいは口頭で深い議論ができるようになる。それらのことは思考の訓練にもなり、思考の訓練というのは特に我々大学関係者最も求めるところであるはずだ。
 その際に<読者に親切に>書くことが思考の訓練の良い方法である。高度な内容を読者にわかりやすく面白く、そのトピックに関しての知的納得を与えるエンターテインメントとしての論文を完成させる。それが執筆において最も重要なことなのだ。
 執筆の前段階としてテーマ設定をしなければならないが、そこで自分が真にもつ興味・関心事で論文テーマを決めなければ、読者の前に何より自分が楽しめない。「表の方法」でなく「裏のやり方」で最初は踏ん張ってみるべきだと思う。
 以上のような留意事項は、論文を書く者として持っておくべき最低限かつ重要なものである。論文執筆の過程では常に以上のことを確認したい。そして、研究者として駆け出しの今、基本的な留意点を本やブログを通してさらに学び、しっかりとした土台をもった上で研究と執筆をしていきたい。