2014年8月15日金曜日

だらだら思考


 読書などを通じて考え抜いたものを書くことももちろん大切です。しかし、そればかりでは思考が堅くなりそうというか堅くなってしまったので、今後は思いつきで巡らせた思考も大切にしていこうと思いたち、書いてみます。


①「日常と結びつけて考える力をつける」というのは目的ではなく方法であるべき

私は去年受けた指導教官のスキンヘッド師匠の授業を通して、将来は生徒に「日常と結びつけて考える力をつける」ことを1つのaimとしてやっていきたいなと思っていました(「『日常と結びつけて考える力を育む授業』とは」参照)。しかし、ふと思うのは、それはaimでなく、objectあるいは単なるmethodとして位置づけるべきものだということです。これをobjectにすると、aimはおそらく「理解力をつける」ことなのかなと思います。簡単に図示してみました。



ここから見えてくる次の課題は、「理解力をつける」というのが本当にaimとなるのか、ということでした。もっと大きな、例えば「コミュ力をつける」などにすべきではないか。今は次の思考に移り、これは今後の課題にします。



②生徒さん、日本に生まれたのなら、金を稼いで幸せになってください

日本全国1人旅(ちょっと大袈裟)を今していますが、鈍行での移動中にジャレド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄』の上巻と下巻を読みました。友だちのラグビー選手に教わったもので、今まで読んだ中でもかなり上位の面白さでした。訳も良く、非常に読みやすかったです。

本書が掲げているテーマ(疑問)は以下のようになっています。なぜ世界には先進国と発展途上国があるのでしょうか。なぜ白人が優れていると言われ、黒人が劣っていると考えられてきたのでしょうか。なぜ西欧諸国が技術の発展をさせてきたのでしょうか。逆に言えば、なぜフランスやドイツ、アメリカ、日本などが発展途上国ではなく、ニュージーランドやエジプト、イラク、ナイジェリアなどの国々が世界をリードする先進国にはならなかったのでしょうか。それはフランス人やドイツ人、日本人がエジプト人やイラク人、ナイジェリア人よりも頭が良く、優れているからなのでしょうか。

以上のような疑問を読者に投げかけ、本論では非常にわかりやすく、上の疑問に関わる地球の歴史を解説しています。ぜひおススメしたい1冊です。

さて、少し結論を急ぎますが、私は本書を通じて、「(エジプトでもイラクでも、あるいはブータンでもなく)日本に生まれたのであれば、金を稼ぐことが幸福につながるのだ」と認識を新たにしました。あたりまえのことに結論が行き着いてしまったので、お暇があれば以下の思考の過程をご一読ください。


技術の発展は食料が安定した地域でしか起こりえません。人間が頭をつかって物事を考える時間を持つことができるのは、食料や衣服が保証されている環境でしかありえません。たとえば原始時代の人々は、日々生きていくために毎日狩りに出かけたり、漁に出て食料を確保しなければなりませんでした。彼らには「じっくり考える」という暇が与えられていませんでした。しかし、徐々に(単位は数千年)分業が行われ、自分が狩りに出ずとも食料が手に入る定住生活に入ると、考える時間を確保できる人々が増えてきました。雑すぎる説明ですが、人類はそうやって少しずつ考える作業を重ね、技術を発展させてきました。原始生活の例は極端な例ですが、これが根源です。私が今、農業に出ずにこうやって徒然と考える作業ができるのも、現代の日本社会という土台があってのことです。

「もし」という状況を考えることに意味はないのかもしれませんが、もし日本ではなくアフリカや南アメリカ、中東などの国に生まれていたら、もし(地球史的にみて)ほんの一瞬でも早い時代に生まれていたら、私はこのように考えるという作業を腰をすえてできていないと思います。クーラーをつけ、ポテチを食べながらパンツ一丁で文章を書いていられる環境をもち、私はこれを幸福なことだと考えています。ここで、現代のこの日本社会という環境におかれている私たちにしか勝ち取れない幸福というものを考えてみます。

結論からいえば、「多くのことを知れること」だと思いました。人間には多くの人に共通する幸せがあります。それは例えば、衣食住の安定や家族の健康、親しい友達が多いことなど多くがあります。それらは今、ありがたくも前提として置いておきます。では、日本という社会で生きる上での幸せとは何か。それが「多くのことを知れること」ではないかと思います。

ブータン人は、もしかしたら日本人よりも「家族のありがたみを知っている」「人生の深みを体感している」といった面でより幸せなのかもしれません。というか私はあの国に尊敬や憧れのようなものをもっています。しかし一方で、日本人は多少の財力と行動力さえあればブータン人よりも「多くのことを知れ」ます。ブータン人は国際的にみて、お金をもっていません(GDP160位)。日本人は平均的にみて多く持っています(GDP3位)。日本に生まれたのであれば、お金さえあれば本を買ったり、体験ツアーなるものに参加してみたり、“おいしい”ものを食べたり、それこそブータンに旅行にいったりすることができます。ブータン人はお金では買えないものを多くの人がもっていますが(テレビの影響を受けた私の主観です)、日本人は上記のようなことが可能な環境に多くの人がいます。

そして何より日本には自慢の教育環境が整っています。「多くのことを知」りたいと思えば、いくらでも学べる環境が用意されています。世界中の本が読みたければ日本語を学べということも聞いたことがあります(ソースは不明)。さらに、多くの知識をもっている者ほど、いい大学に入れて、将来的に平均すればより多くのお金を稼げて、そしてまたその人たちは財力を使って旅行などに行ってどんどんと「多くのことを知る」ことができます。日本人には、外国人に比べて、「お金を稼いで多くを知ること」を実現する環境がもっとも与えられている国ではないでしょうか。

上記のような思考から、私は、子どもたちに「多くのことを知る」という日本人特有の幸せを得るためにお金を稼げるようになりなさい、そのために勉強しなさい、と言いたいと思います。

思うがままに徒然と書いた結果、この結論になりました。教師という決して高収入ではない職業についた私は、行動力をもって「多くのことを知」れればなと思います。そしてその楽しさを子どもたちに伝えていけたらと思います。



③「教師になるんです。」と胸を張っていえない

来年から地元で教師になります。最近同級生と会う機会も多く、よく「仕事は何するん?」と聞かれます。もちろん「教師になるんよ。高校で。英語。」と答えるのですが、なぜかそれをとても言いたくありません。この前電車で隣になった方にも職業を聞かれ、「教師になるんです。」と言うのがすごく恥ずかしく思っている自分に気づきました。

私は今までに悩みという悩みをもったことがない(←)のですが、これが悩みというものなのだと感じています。「誇れないなら教師にならなくていいやんけ」という友人の大阪人の言葉が聞こえてきそうですが(笑)、そういうことでもない気がします。

なぜそう考えるのかを少し掘り下げて見ます。私は、「教師=人を成長させるもの」と考えています。だから「私は教師になります。」=「私は人を成長させる存在になります。」に聞こえ、さらにニュアンスを足すと、「私は比較的立派な人間なので、私は子どもたちを良い方向へ導きます」的な“正義感”にあふれた聞こえが感じられます。それが恥ずかしくてならないのかもしれません。断っておきたいのは、もちろんこれは主観でしかありませんので、いくらでも反論はできると思います。ただ「感じ」を言葉にするとそうなる気がします。

そう考えるということは、私自身がおそらくそう思っているのだと思います。そういうバイアスがかかっているから、どこか“正義感”にあふれた「教師」という言葉に嫌気を感じてしまうのだと思います。

しかし教師が難しいのは、“正義感”をもっていないとやってられないことではないでしょうか。私は生徒をめちゃくちゃ叱ってやれる教師を目指しますが、叱るには自分の“正義”を軸として持たなければいけません。“正義感”をもたずに「やさしい先生」になるのは簡単だと思いますが、そんな“やさしい”人は教師としては三流だと思います。そしてそれがしんどいことだなあと思います。

まとめると、

「“正義感”をもった教師が気持ち悪くて嫌気がさすこと」
「“正義感”をもてない教師は塾講師にでもなればいいということ」

という2つの矛盾が自分の中で割り切れなくて、「教師になるんです」と胸を張っていえない自分がいるのかなあと、徒然に思いました。どうかこんな私にご指導ください。


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だらだら書こうという意図で書き始めたのに、特に2つ目なんて力んでしまいました。やっぱり院生になって頭が固くなっちゃいましたね。もっと感じたことをサッと書けるようになりたいですね。

感じたこと。。。
「彼・彼女ら」って書くのってまじでめんどくせえ

ありがとうございました。
でも3つ目の悩みは書けて思考がすっきりしてよかったです。
ご指導ください。

では。