2014年12月5日金曜日

教師としての精神論と新しい文法モデル~胡子美由紀先生からの学び~

 
2014年12月2日(火)、胡子先生の授業を拝見し、また質問会を開いていただき、実に「学びの密度」の濃い半日となった。この学びを身に落とすために、①教師・胡子先生から学ぶ教師としての精神論、②英語教師・胡子先生の授業スタイルから学ぶ文法指導、の2点を文章にして残しておく。この2点はぜひ私の理想とする教師像に新たに組み入れたいと思うものであり、かつ同世代にも共有していくべきと考えるものである。文章にされない、すなわち今まだまとめきれない(どうまとめて良いかわからない)ものに関しては、最後に箇条書きで簡単に示すこととする。


① 教師・胡子先生から学ぶ教師としての精神論

 私の心にもっとも印象に残った先生のことばは以下である:「50分をフル回転、全力で行う。失敗は許されないし、妥協したら教師をやめる」。この誓約が胡子先生が胡子先生がたる所以であると感じた。こういうことばはよく耳にするようなものかもしれないが、なぜ私の心に深く残ったか。それはやはり胡子先生がこの誓約を守り続け、超スピードで有意義な英語活動が次々と展開されていき、生徒が本当に「一人も」置いていかれることなくついていき、その積み重ねの結果彼女の生徒たちの英語力がぐんぐん伸びているという事実を、私自身目の当たりにしたからである。
 
 大学では授業や教育実習などで、英語教育に関するwhathowwhyを多く学んできた。それらは基礎として英語教師には必須のものであることは間違いない。しかし、さらに下の階層、すなわち素地や下地とでも言うべき部分(もっと適切な表現がありそうだが)に、先生の誓約のような精神論が必要であると思う。レーシングカーに例えるならば、摩擦の少ない良質なタイヤ、空気抵抗を減らす良質なボディ、ドライバーに快適な車内空間があっても(これらが大学で学ぶ基礎である)、エンジンがお粗末ではなんとももったいない。結局、質はいいけど絶対量の足りない、速い走りができないレーシングカーになってしまう。話を戻せばつまり、基礎に忠実な英語の授業を行えば生徒の英語力をある程度伸ばせると思うし、自分でも満足できるかもしれないが、3年間で生徒の英語力がどれだけ伸びたかという絶対量については、教師も生徒も思考がフル回転するような胡子先生のようなスタイルの方が圧倒的に上回っている。私はこの胡子先生の「50分をフル回転、全力で行う。失敗は許されないし、妥協したら教師をやめる」という誓約はすばらしいと思う。せっかく英語教師になるなら、そこに挑戦していきたい(ちょっと弱気..)。
 
※ ここで注意点。文脈上、「大学で学ぶような基礎の部分」が疎かになってしまうような書き方になってしまった(自身を過信した大学生..)が、断じてそれはない。やる気や精神論だけで生徒の英語力が上がるなら、日本の英語教育は失敗などしてこなかったはずだ。私の意図は、「基礎は不可欠」ということを前提としながら、今後「いい英語教師になりたい」と望む学生や教師には、その精神が肝要だろうというものである。さて、勉強勉強。


② 英語教師・胡子先生の授業スタイルから学ぶ文法指導

 胡子先生の達セミなどに参加した方からは、「胡子先生の授業を拝見したのに文法を考えるんかい。高校の教師(志望)は文法しか頭にないのう」という声が聞こえてきそうである。もしかしたら私はそこに傾倒しているのかもしれない。しかし、それでもやはり文法というものからは目を逸らすべきでないと私は考えるため、この思考を大切にする。なお今回の学びは、大学で学んできた形の文法指導とは大きく異なるもので、あるいは従来の英語教育で「常識」とされてきた「文法指導」観とは大きく異なるものかもしれない。少なくとも、私は胡子先生の授業と質問会を通して、日本の英語教育で当たり前とされてきた文法指導に関するイデオロギーには気づくことができた(勉強不足による妄言か?)。
 
 従来の英語教育で当たり前とされてきた文法指導は、文法項目の配列順に丁寧に学んでいくというものである。一応高校で教えられる文法配列をざっくり示すと、5文型→動詞→時制→完了形→助動詞→熊→不定詞→動名詞→分詞→比較→関係詞→仮定法→否定→話法→無生物主語→倒置→各品詞となっている(Forest 6th edition参照)。これらを順に教えていくのが現在の「当然」の文法指導であり、教科書の配列も文法シラバスになっているものが多くある。「文法ありき」で、文法の定着のために「パタンプラクティス」や「言語活動」などを行って「使用」させる授業案も多いかもしれない。
 
 しかし、胡子先生の授業では、こういう切り口から文法指導を行わない。先生の文法の指導法を表現するならば、図のようになると考える(※1度の授業訪問で得た着想なので、先生の卓越した指導を下手に表してしまっている恐れが十分すぎるほどにあります。が、これが今の私の精一杯の解釈です..)。図の説明をもって彼女の指導法のモデルを解説してみます。




 
 まず、Student Teacher1 minute monologueといった活動で、生徒に表現の場を与える。生徒は表現したい内容に忠実に原稿を作ったり、しゃべったりする(図:<使用>)。しかしまだ中学生で、知っている語彙や文法は限られているため、ある程度の制約がかかる(図:<(未知)文法の偶発的出現・必要性>)。その制約をできる限りなくしてしまおうと、言いたい内容を伝えるための語彙や未知文法を導入してしまう。導入といっても難しいことを解説するのでなく、あくまで意味をさっと教える程度である(図:<意味理解を助けるための言葉かけ>)。ここまでのサイクルを必要性がある度に何度も繰り返す。そして、便利な文法項目(例:仮定法;※彼・彼女らは中学生)であればあるほど登場回数も増えるので、生徒はその文法の使い方から身についていく(図:<文法定着>)。文法の理屈は理解していないが、実際に使えるし意味を理解できるのである(<SWでの使用/LRでの理解>)。
 
 私は胡子先生スタイルの文法指導法は、直感的に、従来のものよりも優れていると感じた。なぜなら、生徒が実際に使っている光景を見、聞き手の生徒も理解している雰囲気を感じ取ったからである。しかし坂井の直感だけではあまりにも頼りないので、ここでJakobson(1960)のコミュニケーションモデルを援用することで、胡子先生の文法指導モデルがいかに理に適っているかを示したいと思う。Jakobsonのモデルをここで詳細に扱うことはできないが、今回の例に当てはめて簡単に説明すると、胡子先生流の文法指導を成立させているのは、教師と生徒、あるいは生徒と生徒の「出会い」である。「出会い」というのは、通常の意味での物理的な出会いは当然として、それよりも心理的な「出会い」が肝要である。すなわち、同じ空間で物理的に音が届いていたり文字が視界に入っているだけでなく、お互いの声や思いを理解しようとしていたり伝えようとしている人間関係こそが重要なのである。その「出会い」が成立していて初めて、生徒は教師や他の生徒の「メッセージ」に耳を傾ける。そしてその「メッセージ」に未知文法が含まれていると、生徒はその文法に自然と注目する(Jakobson的にいえば、「出会い」を強めたり「メッセージ」を産み出す「コード」(この場合、未知文法)を理解したいと生徒が自然に思う)。それが、その未知文法学習の動機となるのである。

私は、文法指導にはこのようなプロセスが必要であると考える。生徒が文法項目に理解や使用上での必要性を感じていないのであれば、文法は紙上のものに留まらざるをえない。従来の文法指導の形態では上記のようなプロセスが踏まれていない。それは教える側の都合を優先して行われてきた指導形態ではないだろうか。胡子先生の文法指導モデル、つまり「出会い」のある指導の中にこそ、生徒の心と身体を動かす文法指導があると私は思う。まだこのスタイルは日本の英語教育で確立されていないため試行錯誤が続くと思うが、直感を信じて挑戦してみたい。



 以上、胡子先生の精神論と文法指導の2点が今回の主な学びであった。しかしながら他にもいくつかの学びや気づきがあったため、それらは簡単に以下に箇条書きしておきたいと思う。これらの思考が文章にできるくらいに整理されていくことを願う。

☆ 暗誦の大切さ。音で理解する。中学生の発達段階を考慮すれば、分析的思考・部分的訓練よりも全体的認識・統合的経験のほうが向いている。高校生もある程度そうかもしれない。
☆ ペア活動やグループ活動で、生徒と生徒の間に物を置かない。逆に、少し個人作業が入るときには物を置かせる。
☆ 「生徒に好かれたい」という願望をもち、はたまたそれが目的になって授業を頑張る教員もいる。しかし、その愚かさを例えるなら、スポーツの試合で「観客に注目されたいから試合に勝つ」といっているようなもので、本来は「試合に勝つと、それに付随して観客に注目されるかもしれない」のである。スポーツならばまだ前者の目標であっても良いと思うが、教員という職で飯を食っており、かつ教師という立場にいるのであれば、上の目標はただ愚かでしかない。
☆☆ 「やってはいけないこと」は許さない姿勢を徹底する。提出物でも授業態度でも。一度でも妥協したら終わり。
☆☆☆ 胡子先生の文法指導を成立させている要因には、(a)音声指導の徹底、(b)語順指導の徹底、(c)スラッシュリーディングの頻用の3点が少なくともあるのではないか。


 最後になりましたが、この学びの機会を与えてくれた胡子先生、広島大学樫葉先生、高度化プログラムの院生、その他関係者の方々には大変感謝しております。ありがとうございました。
 また、私のような者の質問にメールでもお答えいただき、胡子先生には本当に感謝しております。ありがとうございました。

 なお、特に文法モデルに関して、読者の皆さまからコメントなどいただけると幸いです。よろしくお願いいたします。




1 件のコメント:

  1. 記事、拝読致しました。大変興味深い話が多く、多く学ぶことができました。

    文法モデルについては自分も賛成です。今読書会で読んでいる「哲学探究」(Wittgenstein)も、言語使用は自分の生活と切り離せない点を再三に渡って強調します。彼の視点から言えば、言語使用の中から特定の文法項目のみを切り離し、それを対象としてメタ言語を持って説明することは、本来の言語使用とかけ離れていると指摘できるのかもしれません。むしろ言語学習(習得・獲得)は、私たちが友達の家に行って新しいゲームができるようになるのと類似しています。ここで、テレビゲームの操作方法の習得過程をご覧頂きたいと思います。「とりあえずやってみぃ。(名古屋弁)」とゲーム機を渡されて、STARTボタンを押し、敵が来たからとりあえずAボタンを押したら武器を使うことができました。それで今度は火を口から出す敵キャラが来ますが、避けることができなくてゲームオーバーになります。(テレッテテレッテテン)
    この時点で私は友達から何も説明されていなくても、「Aボタンを押せば武器が使える」ということを学びました。そして、「どうやったら”あの”火を避けることができたのか」という気持ちが高まるはずです。そのときにはいわゆる「レディネス」が高まった状態で、友達の説明やゲームの攻略本などから情報を得ようとし、火の避け方であるジャンプもマスターするはずです。
    ジャンプを教わったら、またゲームに没頭するはずです。そのときにはジャンプしながら武器を使う、といったあわせ技も自ら発見するかもしれません。そして、対戦型で友達とゲームすれば、友達がキノコを使ってパワーアップしてるのを見て、自分もキノコを取ればパワーアップできると知ることもあるでしょう。(ほとんど何のゲームか特定できそうですがw)

    言語習得も、上のテレビゲームの習得と同じように考えれば、とりあえず言語活動から始まって、必要に応じてコミュニケーションを支える程度の文法教授を行うのは効果的だと思います。(テレビゲームと言語習得がどこまで同様に語られるべきかは、本来ならより緻密に検討すべきかとは思いますが。)

    ここまでは文法モデルに賛成的な意見を述べましたが、最後に個人的な感想を1つだけ述べます。

    言語活動や言語使用を軸にして、それに応じて文法学習を行うというのはもちろん良いでしょう。しかし、中には、ゲームをプレイする前に、マニュアル本でもっと技を身に着けてからやりたい、という子も、実際にはいるのではないでしょうか。クラスの全員が「当たってくだけろ!」の精神で、ゲームの操作方法をあまり分かっていないのにゲームを進められるわけでもないはずです。(自分がそのような生徒だったので...。)

    結局は、目の前の生徒の反応をよく見極めることが大事なのかもしれません。組田先生も、「子どもが分かっているかどうかは、顔を見れば分かる」と仰っていましたが、僕もそのように思います。言語使用をさせる機会を多く作っても、生徒がゲームに飛び込めるかどうかをよく観察して、できないようなら、その前段階に何を与えなければならないか、など検討すべきかもしれません。

    だらだらとした感想文のようになってしまい申し訳ございません。
    また次の記事も楽しみにしております!

    返信削除