2018年9月8日土曜日

中学校教員2年半を終えての学びと思考(4年ぶりの投稿)

4年ぶりの投稿です。
心理的にやっと落ち着いたのでしょうか、文章を書く時間がようやく取れました。
冨樫さんよりひどい休載でした。


前回の投稿からの生活の変化をざっくり書くと、
福井県で高校教員として就職し、
結婚のため神戸へ移住し、
中学校教員として勤務し、
もうすぐ息子が爆誕します。

今回は、
「中学校教員として2年半を終えての学びと思考」
を書き起こして文章で残し、みなさんと共有させていただきたいと思います。

1.クラス担任として
中学校担任は感情労働でした。クラスの生徒はとにかくかわいくて、愛をたっぷり注ぎ、生徒からも愛をもらいました。初担任の1年5組では一生忘れない濃密な時間をすごしました。生徒がサプライズで入籍祝いをしてくれたり、新婚のプレゼントとして合唱コンクールで全力を注いでくれました。泣かされました。
 
うれしいことはたくさんありますが、担任として難しいのは、「学校や学年で足並みをそろえなければならないこと」と「集団をまとめる工夫」でした。

〇学校や学年で足並みをそろえなければならないこと

中学校独特の文化の中では当然のことなのですが、校則やマナーを私の常識や許容範囲で判断するのでなく、隣のクラスや上下の学年と足並みをそろえることに神経をすり減らしました。シャツを入れることや髪を染めないといったことは受け入れられる(「当然」でなく、「受け入れられる」)のですが、常に学ランのホックをしめることや、食事のときにあまりしゃべらず机を前に向けて食べることなどについては、個人的に受け入れづらいまま生徒に課していました。

これらの決め事は、「1つを許すと際限なく生徒の規範意識が崩れていく」という中学校教員の共通認識から生まれたものだと考えます。例えば、ホックが外れていると第1ボタンを開ける、第1ボタンが開くとシャツを出す、シャツを出すと髪を染める、髪を染めると非行にはしるといった具合です。それを入り口で食い止めようという中学校の現体制もよくわかります。

しかし、私はシャツを出しても髪を染めても構わないと思っています。なぜなら学校で大切なことは生徒が「学力を高めること」とか「集団生活の中でコミュニケーションの取り方を身につけること」であり(※個人の意見です)、その目的を達するための方法としての「シャツを出さない」は、今の時代にあっていないと考えるからです。現在も未だ、恐い先生が上から抑える(「クラスを抑えている」「あの先生は生徒を抑えられない」という言い回しは現場でよく聞こえてきます)という方法で、上記の目的を果たそうとしています。しかし、近年のスマホの普及やSNSの流行もあってか、そういう理不尽な指導では子どもたちは動きません。賢くなってきている今の子どもたちは、極端にいえば「学校は勉強したり、集団生活の中でコミュニケーションを学んでいく場だから、その目的に向かって進んでいこうね」と目的を共有すれば、そこに向かって進んでいくのではないかと思います。もちろん、シャツは出しますし、おしゃれな家庭に生まれた子は化粧などのおしゃれをしてくるでしょう。しかし、それらは大人が普段当然のものとしてやっていることであり、自然なことです。

(話はぶれますが、SNSによって、若手教員の私や子どもたちなど社会的弱者に表現の場が提供され、お互いの本音を共有してきたことによって、私たち弱者が「おかしい」と感じることに自信をもって「おかしい」と言えるようになってきたのではないでしょうか。そういう意味で、子どもたちも「賢く」なってきたと感じています。)

確かに「子どもたちとの目的の共有で目的は果たされる」という考えは性善説的で、現実にはおしゃれに目覚めたり恋愛にドはまりしたり、学校を欠席しがちな子も出てくるでしょう。しかし、それは今の時代に私たちが大学で、あるいは大人になってから多くが経験していることではないでしょうか。その経験を中学校でしたとして(言い換えると「こけた」として)、それでいいのではないでしょうか。「中学校での勉強なんて何の役にも立たない」(ホリエモン)というのは極論ですが、今の時代立ち直れないことなどありません。

要は、もっと自然な形で子どもたちが勉強する環境ができたらなあと思います。



〇集団をまとめる工夫
話を戻し、現在の学校教育の中で集団をまとめるには、「抑える」形での指導を私もしています。しかし、そんな状況あっても「行事に向けて心に火をつける」工夫や「温かい学級をつくる」工夫は必須です。これらにあたっては先輩教員や多数の書籍(例えば『プロ教師のクラスがうまくいく「叱らない」指導術』(学陽書房))を参考にしています。



教室の後ろを掲示物でカラフルにしたり、教室をきれいに保つなどいろんな小技はありますが、3年目の私が今一番大切にしているのは「自然体」です。おもしろかったら笑うし、疲れていたらその感じを出すし、生徒への愛も前面に出しています(キモくない程度に笑)。「自然体」が一番いい指導になるよう、自分がもっと徳のある人間にならないといけないなあと思っています。


2.英語教育者として
大学と大学院で6年間学んだ知識や体験が、授業経験を積むにつれて血肉となっていくのが面白いです。技として胡子美由紀先生(広島県教員)を師とし、精神として柳瀬スキンヘッド陽介先生(広島大学教授)を師として意識してきました。

胡子先生をまね、帯活動20分+教科書30分を授業の基本として、帯活動は豊富な活動時間と質、教科書は定着と深さを求めてやってきました。お坊さん(=柳瀬先生)を心に浮かべ、英語が”身体”にしみこんでいくようなイメージを大切にして授業準備と実践を進めました。




今後まだまだやってみたい実践がたくさんあって、今は小さくまとまってしまった感が否めません(中3で受験があるので、いまさら大きな変革もできません)。もっともっと授業力を高めて、生徒たちが「英語はなぜか得意」と言ってくれるようにしていきます。

つらいのは、中学校ではその独自の文化から、授業準備に避ける時間が極端に少ないことです。一番やりたい授業準備が実際一番できません。


3.部活動顧問として
市最弱の男子バレーボール部を持たせてもらい、3年目です。専門のバドミントン以外のスポーツをきちんとしたことがなく、本当にゼロからのスタートでした。子どもたちが素直な子らばかりだったのでよかったですが、1~2年目の土日を含めた毎日の部活動には、辟易としたこともありました。バレーボールやかわいい子どもたちから、チームスポーツの良さを学びましたし、自分の学年の子の引退試合では保護者や子どもたちからのサプライズに泣かされました。

部活動について始めから一貫して思うのは、部活動は中学校教員が相当な労力を投じる仕事であるべきではないということです。

ちょっとここで経済面から考えてみます。私の年収を384万円とします(実際そのくらいです)。一月に32万円で私は雇われています(ボーナスも加えて換算)。一月に20日働くとして、神戸市は私を日給1.6万円で雇っています。1日の実働勤務時間を12時間として、時給0.13万円。一月のうち、部活動に割く時間を少なく見積もって50時間とすると、一月に6.5万円を神戸市は私に支払ってバレーボール部を持たせています。年にすると78万円です。これだけのお金をもらって私はバレーボールを教えていることになりますが、年俸78万円分の働きを私ができるでしょうか。まったくできていません(笑)せいぜい年俸5万円分くらいでしょうか。
この78万円でバレーボール経験者の外部指導員を雇えば、
私は18時には退勤でき、週休完全2日制になり、英語の授業準備や英語力の研鑽により多くの時間を割けます。
世の中のバレーボール経験者でチームを持ちたい人の職にもなります。
何より、子どもたちがよりよい技術指導が受けられます。
(この単純計算でいくと私の年収は306万円(泣)それでも、それが社会全体としてよりよいかなあ。)

部活動が生徒指導上で重要視されていますが、それは前時代的な前提に基づいた考え方だと私は思います。


4.中学校文化について
ここまででも触れてきたとおり、中学校は一言でいうと体制が古いです。ホックまでしめることを課したり、静かに速やかに昼食をとらせたり、硬いイスに座ったまま長時間前を向いていることを強要したり、、、これら「昔から」やっていることは今の時代にあっていないと感じる(「おれらのときは当たり前だった」という年配教員のセリフが大嫌いです)し、私は「古き良き慣習」だとも思えません。おそらく中学校という場所は最も保守的な文化をもつ場の1つなので、一気に変わることはありません。

そういう場にいるからこそ、せめて私は今考えていることを文章にして、「現場の若手の小さな声」としてこの投稿をしました。

少しずつ体制が変わり、子どもたちが自然な環境で勉強や学校生活に取り組んでいけることを望みます。私は今の現状を受け入れつつ、少しでも英語の授業準備や英語力アップに時間を割き、授業力を磨いていこうと思います。

息子爆誕を心待ちにしながら。

柳瀬先生いじってすみません。
先生や懐かしいゼミ生にお会いしていろんなお話聞きたいです。




2014年12月8日月曜日

「実践の言語化」という怠惰・惰性

昨日、サッカー日本代表の柴崎選手が特集されていた。印象的だったのは、彼のアシストシーンを見ながら彼自信が語ったこと。シュートにつながるアシストを蹴りだす直前に、柴崎選手は一瞬にしていろいろなことを考えている。


例えば、
・ 敵Aの位置
・ 敵Bの位置
・ 仲間Aの位置
・ 芝の湿り具合
・ ゴールキーパーの位置
(以上5点、すべてインタビューで柴崎選手が挙げたもの)


柴崎選手は日本のサッカー界を担うすばらしい選手だが、今回のブログ記事の主旨はそこではない。私が思ったのは、「ほんの一瞬の出来事をことばにすると、こんなに長くなるんだな」ということ。つまり、ほとんど同時に起こったことをことばでは同時に表すことができず、だらだらと長くなるし、語りきれもしない、ということである(アホまるだし..当たり前じゃん)。


ことばにするっていう作業は、ここまで「遅」くて「だらだら長」くて「不正確」なのかと改めて感じた。確かに、実践をことばにすると、その一瞬一瞬(例:柴崎選手がアシストを繰り出すの瞬間)が整理されて気持ちがいいし、どこか安心である(英語教育でも、すばらしい実践をことばにしてくれるとなんかすっきりするし、理解した気になる)。今回の柴崎選手の語りに関しては、私は門外漢なのでただ「すげーこんなこと考えてやってんのかー」程度であって、彼の語りやプレーをただボーっと楽しむだけでいい。しかし、楽しむという目的から、学びたいとか自分に取り入れたいという目的に変わった時には、ことばから学ぼうとするプロセスは思った以上に非効率的なのかもしれない。なぜなら、一瞬のことをことばにすると「遅」くて「だらだら長」くて「不正確」だからである。ことばで整理して気持ちよくなる時間があれば、もっと「生」で考えて実践したほうがいいと思う。英語教育でいうならば、授業という「生」で実践しながら自分を省み、生徒を観察しながら指導力を向上させたほうが、読書やセミナーで「薬漬け」になるよりもよっぽどいいと思う。前回ブログに書いた胡子先生などのすばらしい実践者は、必ず「生」でよく考えている。一瞬一瞬の積み重ねが胡子先生ら実践者の現在の実践を作っており、彼女はそれらの全てをことばに置き換えているのではない。


すると、ことばにして満足感を得るのは、怠惰・惰性なのかもしれない(すると、まさに今、私は怠惰かつ惰性なわけである)。また、ことばを読んだり聞いたりするのも、時には惰性になってしまっているのかもしれない。やっぱり英語教師(の卵)としてもっと大切にすべきなのは、「生」なんだと思う。生徒をもったら、生徒を見続ける教師でありたい(物理的な意味ではなく..笑)。


要約:「だらだらとことばにする時間があったら、実践の一瞬一瞬を大切にしよう。そして柴崎選手はやっぱりすごい。」


※ 今回の記事は、あくまで院生でことばの大切さを学んでいるさかいの思考であり、ことばにある種絶対的な信頼を置きすぎているさかいへの戒めも込めています。ですから、少々ことばに対して否定的に書いていますが、もちろん自分の思考を文章化することや読書は、実践を向上させるうえで不可欠です。ただ、ことばにすることで気持ちよくなりたいだけなんだったら、それは知的な装いをした惰性であると言いたかったわけです。。

2014年12月5日金曜日

教師としての精神論と新しい文法モデル~胡子美由紀先生からの学び~

 
2014年12月2日(火)、胡子先生の授業を拝見し、また質問会を開いていただき、実に「学びの密度」の濃い半日となった。この学びを身に落とすために、①教師・胡子先生から学ぶ教師としての精神論、②英語教師・胡子先生の授業スタイルから学ぶ文法指導、の2点を文章にして残しておく。この2点はぜひ私の理想とする教師像に新たに組み入れたいと思うものであり、かつ同世代にも共有していくべきと考えるものである。文章にされない、すなわち今まだまとめきれない(どうまとめて良いかわからない)ものに関しては、最後に箇条書きで簡単に示すこととする。


① 教師・胡子先生から学ぶ教師としての精神論

 私の心にもっとも印象に残った先生のことばは以下である:「50分をフル回転、全力で行う。失敗は許されないし、妥協したら教師をやめる」。この誓約が胡子先生が胡子先生がたる所以であると感じた。こういうことばはよく耳にするようなものかもしれないが、なぜ私の心に深く残ったか。それはやはり胡子先生がこの誓約を守り続け、超スピードで有意義な英語活動が次々と展開されていき、生徒が本当に「一人も」置いていかれることなくついていき、その積み重ねの結果彼女の生徒たちの英語力がぐんぐん伸びているという事実を、私自身目の当たりにしたからである。
 
 大学では授業や教育実習などで、英語教育に関するwhathowwhyを多く学んできた。それらは基礎として英語教師には必須のものであることは間違いない。しかし、さらに下の階層、すなわち素地や下地とでも言うべき部分(もっと適切な表現がありそうだが)に、先生の誓約のような精神論が必要であると思う。レーシングカーに例えるならば、摩擦の少ない良質なタイヤ、空気抵抗を減らす良質なボディ、ドライバーに快適な車内空間があっても(これらが大学で学ぶ基礎である)、エンジンがお粗末ではなんとももったいない。結局、質はいいけど絶対量の足りない、速い走りができないレーシングカーになってしまう。話を戻せばつまり、基礎に忠実な英語の授業を行えば生徒の英語力をある程度伸ばせると思うし、自分でも満足できるかもしれないが、3年間で生徒の英語力がどれだけ伸びたかという絶対量については、教師も生徒も思考がフル回転するような胡子先生のようなスタイルの方が圧倒的に上回っている。私はこの胡子先生の「50分をフル回転、全力で行う。失敗は許されないし、妥協したら教師をやめる」という誓約はすばらしいと思う。せっかく英語教師になるなら、そこに挑戦していきたい(ちょっと弱気..)。
 
※ ここで注意点。文脈上、「大学で学ぶような基礎の部分」が疎かになってしまうような書き方になってしまった(自身を過信した大学生..)が、断じてそれはない。やる気や精神論だけで生徒の英語力が上がるなら、日本の英語教育は失敗などしてこなかったはずだ。私の意図は、「基礎は不可欠」ということを前提としながら、今後「いい英語教師になりたい」と望む学生や教師には、その精神が肝要だろうというものである。さて、勉強勉強。


② 英語教師・胡子先生の授業スタイルから学ぶ文法指導

 胡子先生の達セミなどに参加した方からは、「胡子先生の授業を拝見したのに文法を考えるんかい。高校の教師(志望)は文法しか頭にないのう」という声が聞こえてきそうである。もしかしたら私はそこに傾倒しているのかもしれない。しかし、それでもやはり文法というものからは目を逸らすべきでないと私は考えるため、この思考を大切にする。なお今回の学びは、大学で学んできた形の文法指導とは大きく異なるもので、あるいは従来の英語教育で「常識」とされてきた「文法指導」観とは大きく異なるものかもしれない。少なくとも、私は胡子先生の授業と質問会を通して、日本の英語教育で当たり前とされてきた文法指導に関するイデオロギーには気づくことができた(勉強不足による妄言か?)。
 
 従来の英語教育で当たり前とされてきた文法指導は、文法項目の配列順に丁寧に学んでいくというものである。一応高校で教えられる文法配列をざっくり示すと、5文型→動詞→時制→完了形→助動詞→熊→不定詞→動名詞→分詞→比較→関係詞→仮定法→否定→話法→無生物主語→倒置→各品詞となっている(Forest 6th edition参照)。これらを順に教えていくのが現在の「当然」の文法指導であり、教科書の配列も文法シラバスになっているものが多くある。「文法ありき」で、文法の定着のために「パタンプラクティス」や「言語活動」などを行って「使用」させる授業案も多いかもしれない。
 
 しかし、胡子先生の授業では、こういう切り口から文法指導を行わない。先生の文法の指導法を表現するならば、図のようになると考える(※1度の授業訪問で得た着想なので、先生の卓越した指導を下手に表してしまっている恐れが十分すぎるほどにあります。が、これが今の私の精一杯の解釈です..)。図の説明をもって彼女の指導法のモデルを解説してみます。




 
 まず、Student Teacher1 minute monologueといった活動で、生徒に表現の場を与える。生徒は表現したい内容に忠実に原稿を作ったり、しゃべったりする(図:<使用>)。しかしまだ中学生で、知っている語彙や文法は限られているため、ある程度の制約がかかる(図:<(未知)文法の偶発的出現・必要性>)。その制約をできる限りなくしてしまおうと、言いたい内容を伝えるための語彙や未知文法を導入してしまう。導入といっても難しいことを解説するのでなく、あくまで意味をさっと教える程度である(図:<意味理解を助けるための言葉かけ>)。ここまでのサイクルを必要性がある度に何度も繰り返す。そして、便利な文法項目(例:仮定法;※彼・彼女らは中学生)であればあるほど登場回数も増えるので、生徒はその文法の使い方から身についていく(図:<文法定着>)。文法の理屈は理解していないが、実際に使えるし意味を理解できるのである(<SWでの使用/LRでの理解>)。
 
 私は胡子先生スタイルの文法指導法は、直感的に、従来のものよりも優れていると感じた。なぜなら、生徒が実際に使っている光景を見、聞き手の生徒も理解している雰囲気を感じ取ったからである。しかし坂井の直感だけではあまりにも頼りないので、ここでJakobson(1960)のコミュニケーションモデルを援用することで、胡子先生の文法指導モデルがいかに理に適っているかを示したいと思う。Jakobsonのモデルをここで詳細に扱うことはできないが、今回の例に当てはめて簡単に説明すると、胡子先生流の文法指導を成立させているのは、教師と生徒、あるいは生徒と生徒の「出会い」である。「出会い」というのは、通常の意味での物理的な出会いは当然として、それよりも心理的な「出会い」が肝要である。すなわち、同じ空間で物理的に音が届いていたり文字が視界に入っているだけでなく、お互いの声や思いを理解しようとしていたり伝えようとしている人間関係こそが重要なのである。その「出会い」が成立していて初めて、生徒は教師や他の生徒の「メッセージ」に耳を傾ける。そしてその「メッセージ」に未知文法が含まれていると、生徒はその文法に自然と注目する(Jakobson的にいえば、「出会い」を強めたり「メッセージ」を産み出す「コード」(この場合、未知文法)を理解したいと生徒が自然に思う)。それが、その未知文法学習の動機となるのである。

私は、文法指導にはこのようなプロセスが必要であると考える。生徒が文法項目に理解や使用上での必要性を感じていないのであれば、文法は紙上のものに留まらざるをえない。従来の文法指導の形態では上記のようなプロセスが踏まれていない。それは教える側の都合を優先して行われてきた指導形態ではないだろうか。胡子先生の文法指導モデル、つまり「出会い」のある指導の中にこそ、生徒の心と身体を動かす文法指導があると私は思う。まだこのスタイルは日本の英語教育で確立されていないため試行錯誤が続くと思うが、直感を信じて挑戦してみたい。



 以上、胡子先生の精神論と文法指導の2点が今回の主な学びであった。しかしながら他にもいくつかの学びや気づきがあったため、それらは簡単に以下に箇条書きしておきたいと思う。これらの思考が文章にできるくらいに整理されていくことを願う。

☆ 暗誦の大切さ。音で理解する。中学生の発達段階を考慮すれば、分析的思考・部分的訓練よりも全体的認識・統合的経験のほうが向いている。高校生もある程度そうかもしれない。
☆ ペア活動やグループ活動で、生徒と生徒の間に物を置かない。逆に、少し個人作業が入るときには物を置かせる。
☆ 「生徒に好かれたい」という願望をもち、はたまたそれが目的になって授業を頑張る教員もいる。しかし、その愚かさを例えるなら、スポーツの試合で「観客に注目されたいから試合に勝つ」といっているようなもので、本来は「試合に勝つと、それに付随して観客に注目されるかもしれない」のである。スポーツならばまだ前者の目標であっても良いと思うが、教員という職で飯を食っており、かつ教師という立場にいるのであれば、上の目標はただ愚かでしかない。
☆☆ 「やってはいけないこと」は許さない姿勢を徹底する。提出物でも授業態度でも。一度でも妥協したら終わり。
☆☆☆ 胡子先生の文法指導を成立させている要因には、(a)音声指導の徹底、(b)語順指導の徹底、(c)スラッシュリーディングの頻用の3点が少なくともあるのではないか。


 最後になりましたが、この学びの機会を与えてくれた胡子先生、広島大学樫葉先生、高度化プログラムの院生、その他関係者の方々には大変感謝しております。ありがとうございました。
 また、私のような者の質問にメールでもお答えいただき、胡子先生には本当に感謝しております。ありがとうございました。

 なお、特に文法モデルに関して、読者の皆さまからコメントなどいただけると幸いです。よろしくお願いいたします。




2014年8月15日金曜日

だらだら思考


 読書などを通じて考え抜いたものを書くことももちろん大切です。しかし、そればかりでは思考が堅くなりそうというか堅くなってしまったので、今後は思いつきで巡らせた思考も大切にしていこうと思いたち、書いてみます。


①「日常と結びつけて考える力をつける」というのは目的ではなく方法であるべき

私は去年受けた指導教官のスキンヘッド師匠の授業を通して、将来は生徒に「日常と結びつけて考える力をつける」ことを1つのaimとしてやっていきたいなと思っていました(「『日常と結びつけて考える力を育む授業』とは」参照)。しかし、ふと思うのは、それはaimでなく、objectあるいは単なるmethodとして位置づけるべきものだということです。これをobjectにすると、aimはおそらく「理解力をつける」ことなのかなと思います。簡単に図示してみました。



ここから見えてくる次の課題は、「理解力をつける」というのが本当にaimとなるのか、ということでした。もっと大きな、例えば「コミュ力をつける」などにすべきではないか。今は次の思考に移り、これは今後の課題にします。



②生徒さん、日本に生まれたのなら、金を稼いで幸せになってください

日本全国1人旅(ちょっと大袈裟)を今していますが、鈍行での移動中にジャレド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄』の上巻と下巻を読みました。友だちのラグビー選手に教わったもので、今まで読んだ中でもかなり上位の面白さでした。訳も良く、非常に読みやすかったです。

本書が掲げているテーマ(疑問)は以下のようになっています。なぜ世界には先進国と発展途上国があるのでしょうか。なぜ白人が優れていると言われ、黒人が劣っていると考えられてきたのでしょうか。なぜ西欧諸国が技術の発展をさせてきたのでしょうか。逆に言えば、なぜフランスやドイツ、アメリカ、日本などが発展途上国ではなく、ニュージーランドやエジプト、イラク、ナイジェリアなどの国々が世界をリードする先進国にはならなかったのでしょうか。それはフランス人やドイツ人、日本人がエジプト人やイラク人、ナイジェリア人よりも頭が良く、優れているからなのでしょうか。

以上のような疑問を読者に投げかけ、本論では非常にわかりやすく、上の疑問に関わる地球の歴史を解説しています。ぜひおススメしたい1冊です。

さて、少し結論を急ぎますが、私は本書を通じて、「(エジプトでもイラクでも、あるいはブータンでもなく)日本に生まれたのであれば、金を稼ぐことが幸福につながるのだ」と認識を新たにしました。あたりまえのことに結論が行き着いてしまったので、お暇があれば以下の思考の過程をご一読ください。


技術の発展は食料が安定した地域でしか起こりえません。人間が頭をつかって物事を考える時間を持つことができるのは、食料や衣服が保証されている環境でしかありえません。たとえば原始時代の人々は、日々生きていくために毎日狩りに出かけたり、漁に出て食料を確保しなければなりませんでした。彼らには「じっくり考える」という暇が与えられていませんでした。しかし、徐々に(単位は数千年)分業が行われ、自分が狩りに出ずとも食料が手に入る定住生活に入ると、考える時間を確保できる人々が増えてきました。雑すぎる説明ですが、人類はそうやって少しずつ考える作業を重ね、技術を発展させてきました。原始生活の例は極端な例ですが、これが根源です。私が今、農業に出ずにこうやって徒然と考える作業ができるのも、現代の日本社会という土台があってのことです。

「もし」という状況を考えることに意味はないのかもしれませんが、もし日本ではなくアフリカや南アメリカ、中東などの国に生まれていたら、もし(地球史的にみて)ほんの一瞬でも早い時代に生まれていたら、私はこのように考えるという作業を腰をすえてできていないと思います。クーラーをつけ、ポテチを食べながらパンツ一丁で文章を書いていられる環境をもち、私はこれを幸福なことだと考えています。ここで、現代のこの日本社会という環境におかれている私たちにしか勝ち取れない幸福というものを考えてみます。

結論からいえば、「多くのことを知れること」だと思いました。人間には多くの人に共通する幸せがあります。それは例えば、衣食住の安定や家族の健康、親しい友達が多いことなど多くがあります。それらは今、ありがたくも前提として置いておきます。では、日本という社会で生きる上での幸せとは何か。それが「多くのことを知れること」ではないかと思います。

ブータン人は、もしかしたら日本人よりも「家族のありがたみを知っている」「人生の深みを体感している」といった面でより幸せなのかもしれません。というか私はあの国に尊敬や憧れのようなものをもっています。しかし一方で、日本人は多少の財力と行動力さえあればブータン人よりも「多くのことを知れ」ます。ブータン人は国際的にみて、お金をもっていません(GDP160位)。日本人は平均的にみて多く持っています(GDP3位)。日本に生まれたのであれば、お金さえあれば本を買ったり、体験ツアーなるものに参加してみたり、“おいしい”ものを食べたり、それこそブータンに旅行にいったりすることができます。ブータン人はお金では買えないものを多くの人がもっていますが(テレビの影響を受けた私の主観です)、日本人は上記のようなことが可能な環境に多くの人がいます。

そして何より日本には自慢の教育環境が整っています。「多くのことを知」りたいと思えば、いくらでも学べる環境が用意されています。世界中の本が読みたければ日本語を学べということも聞いたことがあります(ソースは不明)。さらに、多くの知識をもっている者ほど、いい大学に入れて、将来的に平均すればより多くのお金を稼げて、そしてまたその人たちは財力を使って旅行などに行ってどんどんと「多くのことを知る」ことができます。日本人には、外国人に比べて、「お金を稼いで多くを知ること」を実現する環境がもっとも与えられている国ではないでしょうか。

上記のような思考から、私は、子どもたちに「多くのことを知る」という日本人特有の幸せを得るためにお金を稼げるようになりなさい、そのために勉強しなさい、と言いたいと思います。

思うがままに徒然と書いた結果、この結論になりました。教師という決して高収入ではない職業についた私は、行動力をもって「多くのことを知」れればなと思います。そしてその楽しさを子どもたちに伝えていけたらと思います。



③「教師になるんです。」と胸を張っていえない

来年から地元で教師になります。最近同級生と会う機会も多く、よく「仕事は何するん?」と聞かれます。もちろん「教師になるんよ。高校で。英語。」と答えるのですが、なぜかそれをとても言いたくありません。この前電車で隣になった方にも職業を聞かれ、「教師になるんです。」と言うのがすごく恥ずかしく思っている自分に気づきました。

私は今までに悩みという悩みをもったことがない(←)のですが、これが悩みというものなのだと感じています。「誇れないなら教師にならなくていいやんけ」という友人の大阪人の言葉が聞こえてきそうですが(笑)、そういうことでもない気がします。

なぜそう考えるのかを少し掘り下げて見ます。私は、「教師=人を成長させるもの」と考えています。だから「私は教師になります。」=「私は人を成長させる存在になります。」に聞こえ、さらにニュアンスを足すと、「私は比較的立派な人間なので、私は子どもたちを良い方向へ導きます」的な“正義感”にあふれた聞こえが感じられます。それが恥ずかしくてならないのかもしれません。断っておきたいのは、もちろんこれは主観でしかありませんので、いくらでも反論はできると思います。ただ「感じ」を言葉にするとそうなる気がします。

そう考えるということは、私自身がおそらくそう思っているのだと思います。そういうバイアスがかかっているから、どこか“正義感”にあふれた「教師」という言葉に嫌気を感じてしまうのだと思います。

しかし教師が難しいのは、“正義感”をもっていないとやってられないことではないでしょうか。私は生徒をめちゃくちゃ叱ってやれる教師を目指しますが、叱るには自分の“正義”を軸として持たなければいけません。“正義感”をもたずに「やさしい先生」になるのは簡単だと思いますが、そんな“やさしい”人は教師としては三流だと思います。そしてそれがしんどいことだなあと思います。

まとめると、

「“正義感”をもった教師が気持ち悪くて嫌気がさすこと」
「“正義感”をもてない教師は塾講師にでもなればいいということ」

という2つの矛盾が自分の中で割り切れなくて、「教師になるんです」と胸を張っていえない自分がいるのかなあと、徒然に思いました。どうかこんな私にご指導ください。


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だらだら書こうという意図で書き始めたのに、特に2つ目なんて力んでしまいました。やっぱり院生になって頭が固くなっちゃいましたね。もっと感じたことをサッと書けるようになりたいですね。

感じたこと。。。
「彼・彼女ら」って書くのってまじでめんどくせえ

ありがとうございました。
でも3つ目の悩みは書けて思考がすっきりしてよかったです。
ご指導ください。

では。



2014年5月1日木曜日

あなたの思い浮かべる理想の生徒像はどんなものですか-胡子先生の達人セミナーに参加して-


先週末4月26日(土)に広島市で行われた達人セミナーに参加してきました。
胡子美由紀先生に講演していただきました。

学ぶことがとても多く、教師や教師を目指す人にとっても有益な情報ばかりだったので、ブログにまとめさせていただきます。

今回は、考えることが多かった以下の4点を書きたいと思います。
 
 ○ 自分がなんとなしに思い浮かべている授業像や生徒像について
 ○ 授業づくりのポイントについて
 ○ Dale's Cone of Experience
 ○ 胡子先生がなぜスーパー英語教師になれたのか

では、1つずつ、できるだけreader friendlyな説明を目指して書いていきたいと思います。

1 自分がなんとなしに思い浮かべている授業像や生徒像について

私も、なんとなく「こういう授業がしたい」、「こういう生徒になって巣立ってほしい」という像があります。おそらく教師であれば誰しもがこういった”ふんわりした”像を描いているでしょう。

胡子先生がすごいのは、それを彼女の言葉で言語化しているところだと思いました。ふんわりと思い描くのではなく、頭の中の像をできるだけ言語化し、それを目的(aim)として定め、それにこだわり続け、そのために「チェックリスト」(後述)を作り、その目的に即した目標(object)を設定し、その目標を達成するためには今何をすればよいかを決め、それを”素敵に”実践に移します。

セミナーで得た1番大切なことを今書いてしまいました。今回の記事でもここが1番のポイントだと思います。ここだけでも精読してやってください。“素敵に”のところは章を改めて書きます。


2 授業づくりのポイントについて

では、ここでは胡子先生の「チェックリスト」を掲載したいと思います。これらから先生の思い描く生徒像が透けて見えてくるかもしれませんね。先生はこれを「授業づくりのポイント」として私たちに示してくれました。

1 教室全体が学びの場となっているか
2 一体感があるか
3 教師と生徒・生徒同士の交流があるか
4 生きた英語が飛び交っているか
5 生徒の英語使用時間はどれくらいか
6 生徒の思考が活性化する時間はどれくらいか
7 表現できない(言えない・書けない)体験をたくさんさせているか
8 生徒が達成感・充実感をもち授業を終えているか

私は、先生の授業での生徒の様子を見せていただいたので、これらの言葉が決してただの綺麗ごとではないことがわかります(文章での表現は難しいのでやりません。恐縮です)。公的な文章でもこういったものは書いてあるかもしれませんが、先生のものは現実的で、より”重い”と思います。

さて、私は特に「3 教師と生徒の交流があるか」と「6 生徒の思考が活性化する時間はどれくらいか」について少しだけ書きたいと思います。

-「3 教師と生徒・生徒同士の交流があるか」について

これはなかなか難しいことでもあり、かつ授業には不可欠なことであると思います。教師と生徒が交流しないような授業をするのであれば、ネット上にいくらでもある英語学習サイトや、某予備校のDVDを生徒に50分見させたほうが、よっぽど生徒のためになるでしょう。あるいは、生徒同士が交流しないのであれば、教室でせっかく一緒にいる意味がありません。一人で学ぶよりも、みんなで学ぶほうがいい。特に英語という教科ではそうではないでしょうか。

しかし、現状としては、教師だけがしゃべっているような授業や、生徒の顔すらまともに見ずに授業を進める教師がいます(私の経験上ですが)。あるいは生徒同士がまったく交流しない英語授業がとても多いです(私の経験上ですが)。そんな現状を私たち若い世代から変えていければいいですね(個人的には、机の配置から変えたいと思っています)。

-「6 生徒の思考が活性化する時間はどれくらいか」について

授業はメリハリをつけるのが良いと私は考えています(黙れ教壇未経験者www)。前の授業で頭が疲れている生徒を少しでも休めるために雑談から入り、帯活動で徐々に英語授業へ。授業のクライマックスで生徒の思考がフル稼働しているのが理想です。

思考をフル稼働させる有効な手段は、英語を話したり、書いたりすることだと考えます。アウトプットの活動を授業の最後にもってくることを目指して授業構成をしたいところです。

また、学習事項(文法でも、語彙でも、文章の内容でも)を自分の身に落として考えることも、思考の訓練に必要なことだと考えます。英語を教科書上のものにせず、自分の経験と照らし合わせて考えさせる(参照:「日常と結びつけて考える授業とは」)ことで、「生きた英語」を目指したいです。


3 Dale's Cone of Experience

ご存知の方も多いと思いますが、Daleの学習ピラミッドというものがあります(院生になるまで知らなかったなんて...)。私にとって心から納得でき、実践すべきと思ったものでした。ここでは図のみをもって紹介いたします。各図で、下にある教授法を用いるほど、学習者の理解度や定着度があがるというものです。(上の図が簡単なもの、下の図がより詳細なものですが、上の図とは異なります。)








よくある授業は、せいぜい視聴覚教材を用いる程度ではないでしょうか。正直、大学の講義はこの観点でいうと「ひどい」としか言えないものが多いように思います(なんという攻め!)。伝えることが多くって、きっと大変なんだなあと思いますけどね(退却!)。


4 胡子先生がなぜスーパー教師になれたのかについて

「そんなことお前にわざわざ分析されなくてもいいよw」という声には耳をふさぎ、少し考えてみたいと思います(1章で言及した、「”素敵に”実践する」という話につながります)。

まずは「考えぬく力と習慣」です。先生は、お国が出している文書や、お偉いさんが書いた本、すなわち、他人が考えたことばかりを実践しているわけではありません。英語力とは何か、自分が思う理想の生徒とはどんな生徒か、そのためには授業をどうすればよいか、などといったことを、現場で考え抜いている方です。だから先生にとって理論は後づけだと思います。言い換えれば、自分で考えて実践していることが、理論としてどこかにあったとか、もしくは理論が追いついていない、そんな感じを受けました。

私は大学と院の6年間で、理論がだいぶ先行してしまいました。他人が考えた”良い”ものばかりが私の頭を支配しています。教壇にたったときには、そこに経験を加えて自分のものに変容し、あるいは自分の頭で生徒と向き合いながら考えていきたいと思います。だから、やはり今、院でやることは「今、ここで、考える力」をつけることですね(院に入った当初の目的だ。間違いではなかった!と盲信。)。

最後にもう1点。
先生のすごいところは、たぶんこれに尽きると思いますが(言いすぎですが)、魅力なんだと思います。これは樫葉みつ子先生がおっしゃっていたことなんですが、教師には何らかの魅力が必要です。胡子先生の場合、生徒がひきつけられるような強い魅力をお持ちだと思います。バイタリティに溢れ、とても優しく、何より美人です(これには院生全員の賛成票を獲得しています笑)。そんな魅力があるから、生徒たちは英語に対する恥ずかしい気持ちとか、英語は難しいという先入観とかを捨てて、全力で先生についてくるのだと思います。

私はバイタリティに溢れるわけでもなく、先生のように生徒を包み込む優しさもなく、美人でもありません。しかし、私にしか見出せない魅力を見つけ、そしてそれを伸ばしていき、生徒が安心して私についてこれるような教師になりたいと思っています。そして、スーパー教師を超えたスーパー教師2をさらに超えた、スーパー教師3になりたいと思います。



・・・
以上、ここまで読んでいただいた方、貴重なお時間ありがとうございました。
また、胡子先生には何度もセミナーで教師のいろはを教えていただきました。本当にありがとうございました。またよろしくお願いいたします。










「日常と結びつけて考える力を育む授業」とは



私は、英語教師になるにあたり、教壇に立ったら、「日常と結びつけて考える力を育む授業」を展開したいと考えています。私の指導教員の授業で、John DeweyのDemocracy and Educationを読んで考えたことを以下に転載いたします。

(なお、わたしを含め、他の院生の思考はhttp://yanaseyosuke.blogspot.jp/search?q=Dewey+%E9%99%A2%E7%94%9Fに転載されています。)

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以下の内容は、某高校への研究授業に向かう車の中でM1のN君と話した内容です。実際の会話を、簡潔な形で抜粋します。


N 「教壇に立ったらどういう授業がしたい?」
私 「生徒が自ら、授業の内容を、全て実生活に結び付けながら聞く授業。生徒が考える授業をしたいと思ってる。」
N 「生徒に考えさせる授業か。おれも実習でその大切さを教わった。おれの指導教員は、『生徒にいかに考えさせるかが、教師の力量に直結する』とおっしゃってたな。その話、もう少し詳しくお願い。」
私 「例えば、サッカー部の子はサッカー部での経験と、授業内容を結びつけながら。部活していない子は、昨日読んだ本とか体験したことに結びつけて。」
N 「そうか、つまり柳瀬先生の授業でおれたちがやってきたやつだ。でも、①経験が浅い高校生にそれができるか?発達段階的に不可能では?あと、②じゃあ例えば、英語の文章をパラフレーズするやり方を教える授業をするんやったら、生徒はどういう風に実生活と結びつけたらいいの?」


 N君は、私よりはるかに教師になったときのことを具体的に考えており、かつ、努力を惜しまずやっている友人です。そんなN君と話していて、多くのことを考えさせられました。特に上の会話で出た2点は、私にとって重要な課題です。それらをDeweyに沿って考えていきたいと思います。 

① 発達段階 v.s. 悪習慣
 高校生は、人生経験が浅く、知識も大学生に比べて乏しいです。ここでは、そういった意味で発達段階と言うことにします。そういった高校生に、授業を通して、実生活に結びつけて考えさせる習慣を培うことは不可能なのでしょうか。つまり、知識を教師から一方的に教えることしかできないのか、あるいはその方が良いのでしょうか。  

 この点について、私は完全に反対の立場に立つことはできません。Deweyも”Knowledge, already attained knowledge, controls thinking and makes it fruitful.”と述べています。高校生は、おしなべて言えば、考える材料(知識や様々な経験)が大学生よりも少ないです。大学生が柳瀬先生の授業で日常と結びつけることができるのは、ある一定の知識を得ているからかもしれません(ちなみに私の場合、色んなものを結び付けて考える習慣がようやくついたのは、大学4年生くらいからでした)。また、高校生は、1日に6~8授業をこなしており、与えられる知識も膨大な量になります。膨大な知識量を詰めこまれるため、そもそも、考えることに体力を消費している暇がないのかもしれません。ただただ授業を受け続け、知識を教わり続け、椅子に座っている以外に、高校生ができる選択肢はないのかもしれません。もしそうなのであれば、私の目指す授業を展開するには、少なくとも、学校全体が動くことが必要になると思います。若手の下っ端教員である数年後の私にとって、それはあまり現実的ではありません。  

 しかし、それでも私は「生徒に考えさせる授業、日常に結びつける習慣がつく授業」を展開したいという思いがあります。ここで私が主張したいのは、「英語教師の授業形態によっては、英語の授業においてだけでも考える習慣がつくのではないか」ということです。Deweyは

…a theory apart from an experience cannot be definitely grasped even as theory. It tends to become a mere verbal formula, a set of catchwords used to render thinking, or genuine theorizing, unnecessary and impossible. (p.138)(拙訳:経験と離された教育内容は、教育内容としてすらきちんと理解されない。[経験と結びついていないならば、]教育内容は、思考や純粋な教育内容の構築を不要あるいは不可能にしてしまうために使われる、単なることばの形式や定型表現となってしまう。)


と述べています。教師のこのような授業形態(すなわち、生徒自身の経験と教育内容とを結びつけない授業)の連続が、生徒を考えることから遠ざけているのだと思います。高校生に知識が少ないからではなく、そもそも経験(すなわち日常)で考えることをさせずにいるという現状があるのではないでしょうか。英語教師が英語の授業で日常と結びつける術を教え、そうして考えることを授業内で行わせていけば、少なくとも英語の時間は日常で考えるようになってくれるのではないでしょうか。そう信じて、教壇に立った時には授業を展開してみたいと思います(粘り強くやってみて、それが駄目だったら、obstinacyにならないよう、方向転換を考えますが…)。 

② パラフレーズをどうやって日常で考える?
Deweyが

Thinking, in other words, is the intentional endeavor to discover specific connections between something which we do and the consequences which result, so that the two become continuous.(p.140)


と述べている通り、「考えることは結びつけること」です。では、英語の授業でしばしば行われるパラフレーズの指導を例にとるならば、それはどのように日常と結びつくのでしょうか。

 英語の授業では、説明文教材などを用いてパラフレーズの仕方を学習します。指導が成功すれば、生徒は「こうやって言い換えをすれば、わかりやすくするのか」「こうやって文章を整理していけばいいんだ」といったことを学びます。生徒はこの技術を駆使して、期末試験やセンター試験などを解いていくことでしょう。

 しかし、この技術を英語のテストだけに用いるのはもったいないですし、そもそもそれでは意味がないと思います。テストで問われない限り、一生その技術を使う日などきません。それでは学校で教える意味がありません。

 私の経験から、パラフレーズを学ぶ意義を考えてみます。私の友人に、「難しい本の内容を簡潔に、昨日の講義の内容を簡潔に、面白いエピソードをきれいな形で」語れる人がいます。この能力はまさに、パラフレーズが上手い一例ではないでしょうか。パラフレーズは決して英語のテストで測られるものだけでなく、私の友人の例のように日常と直結しているものであり、生きる上で大切な能力です。これはまさにコミュニケーション能力であり、英語科が目標として掲げているものです。このように、日常に落として初めて、パラフレーズの英語授業はコミュニケーション能力に結びつくものになるのではないでしょうか。 

 以上が、私が「日常と結びつけて考える力を育む授業」を目指す理由と具体例です。今回はたまたまパラフレーズを教えるという事例を取り上げましたが、これは本来、生徒を前にして初めて考えるべきことです。しかし、院生である間も、目指す授業を実現すべく、できるだけ具体的に授業像を考えていきたいと思います。  

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2014年3月30日日曜日

考えるための極意

この記事は、私が外山滋比古著・『思考の整理学』(ちくま文庫)を読み、考えを綴ったものです。

私は、院の2年間で「考える力をつける」ことを第1の目的としています。そんな私にとって、この本からもらった恩恵はとても大きいものでした。ちくま文庫のベストセラーでもあるこの本を、拙いながらも解釈し、(私にとっての)本書のエッセンスを取り出してみました。

(ここではハウツー本的な書き方になってしまいましたが、原著はそんな書き方ではありません。あくまで氷山の一角を取りざたしたまでです。)



○ 朝に考える
これはあらゆる本に書いてあることですよね。夜にだらだらと考えるのではなく、考えるに適するのはやはり朝です。

外山さんは「夜考えることと、朝考えることとは、同じ人間でも、かなり違っているのではないか、ということに気づいた。」(p22)
と述べています。

これはもちろん理由があります。私がもっとも納得した理由はをざっくり言うと、
「人は寝ているときに出来事や思考を整理する。頭がもっとも整理された状態でものごとを考えられるのは朝であり、よって朝に考える作業をすべきである。」
というものです。わかりやすくするために、部屋で作業することを考えてみます。部屋が服や書類、ごみなどで散らかっていると、勉強するにも、ちょっとした運動をするにも、探し物をするにも、何をするにも困難になります。人間の頭でいうと夜がこの状態ですね。朝起きて、仕事場にいき、作業をし、ご飯を食べ、運動をし、、、といったいろんなことが起こり、頭がいろんなことを思い考えた状態では、考える作業は困難になります。

やはり考える仕事、アイディアを出すこと、文章を書くことなどは、頭が整理された朝に行うべきなのですね。



○ 三上(さんじょう)で考える
その昔、中国に欧陽修という人が、文章を作るときに、すぐれた考えがよく浮かぶ3つの場所として、馬上(ばじょう)、枕上(ちんじょう)、厠上(しじょう)をあげました。馬の上で、朝にふとんの上で、便所にいるときに、ふといい考えが浮かぶということです。

これを現代にあてはめてみるならば、車にのっているとき(歩いているとき)、朝ベッドでぼーっとしているとき、トイレで便座にすわっているとき、となるでしょうか。しかし重要なことは、これはあくまで例えであり、本質は「一見無駄であるような時間こそ大切にせよ」ということだと考えます。

卑近な例で申し訳ありませんが、私は、少しでもボーっとする時間は、できるだけ排除しようとしながら生活しています。何もずっと生産的なことをしているのではなく、例えば「トイレで座っている時間は暇で、効率的じゃない。漫画おいとこう。」とか、「料理をしている時間にただ料理しているのは効率が悪い。よし、片手間でテレビつつ部屋を片付けつつやろう。」となります。要するに、「ながら生活」というのか、常に余裕をもたないわけです。

おそらく、こういった習慣をもっている私では、アイディアマンには決してなれないのでしょう。私が勝手に勘違いしている”効率のよい生活”を求め続ければ、つまり「考えるときはしっかり考える、考えないときは何も考えない」といった一見”効率的”なことをしていては、本当に柔軟で、ふとしたよいアイディアを生むことはできないのでしょう。

私はこの習慣を改めていかなければと反省しています。万が一、私に似たことをしている方がいるならば、今後運転している時間、朝の何気ない時間、トイレにいる時間も、何かし「ながら」でなく、なんとなしに徒然なることに思考をめぐらせてみてください。



○ 寝させて考える
先ほど、私は「『考えるときはしっかり考える、考えないときは何も考えない』といった一見”効率的”なことをしてい」ると述べましたが、これはもちろん、「『考えないときは何も考えない』ことは実は非効率だ」という意味です。その理由はこの「寝させて考える」という習慣にあります。

外山さんが本の中でおっしゃっています。
「本当の大問題は、長い間、心の中であたためておかないと、形をなさない。」

先ほど三上(さんじょう)について述べましたが、何気なしに自分でずーっと持っている疑問や考えるタネがないと、当然何も答えや発想は得られません。しかしながら、多くの人は、必ず何か疑問は常にもっているのだと思います。皆さんも、「あー、あれはこういうことだったのか!」と思う経験をしたことがあるはずです。これは、誰もが何かしら、大なり小なりの疑問をもっているということですね。

これを利用して、会社の仕事や、論文の作成、悩み事の解決策など、身近な問題を長期間で考える習慣をつけましょう。悩み事などもずっと悩んでいるのではなく、とりあえず寝かせておくわけです。あるときふと、「こうすればいいのか」、「こういうことか」と大なり小なりの解決策は出てくるはずです。これが「時間が解決してくれる」ということなのかもしれませんね。



○ しゃべって考える
「調子に乗ってしゃべっていると、自分でもびっくりするようなことが口をついて出てくる。やはり声は考える力をもっている。われわれは頭だけで考えるのではなく、しゃべって、しゃべりながら、声にも考えさせるようにしなくてはならない。」(p159)

私は、研究室で何気なく話すことは授業よりも収穫があると思っています。まあ別に収穫がなくても楽しければオールオッケーだけど、求めずとも、何かしら得るものがあります。

ゴシップや人の悪口(「他人の不幸は蜜の味」と言いながら、外山さんもこの欲求を不可避なものだとしています。)ばかりを友人同士でしゃべるのではなく、自分の疑問に思っていること(対人関係ばかりでなく!)をしゃべる習慣をもちたいですね。それを認めてくれる友人は、決して上辺だけの関係ではないと思います。



○ 書いて考える
「とにかく書いてみなさい」(外山滋比古)
「紙と鉛筆なしに考えることはできない」(柳瀬陽介)
ちょっと並べてみました(笑)。紙と鉛筆というのは比ゆですが、柳瀬先生も常々こうおっしゃっていますよね。

考えてから書くのは間違いです。よく勘違いされることですが、順序が違います。私は今まさに書いていますが、書くことで自分の頭を整理しよう、書くことで新たな発想を得たい、という目的もあって書いています。

書くことで頭が整理されるというのを、本書にあった比ゆを借りて説明したいと思います。
ぐじゃぐじゃに絡まった糸のかたまりを思い浮かべてください。これが本書を読み終えた(私の)頭の中にあります。その糸のかたまりを、できるだけ一直線にして頭においておきたい、そのために書きます。書いているうちに、だんだんと考えていることがはっきりしてきます。しかし、本書を読み終えて残る糸のかたまりは、一本の糸でなく、何本もの糸が絡まっています。そのすべての糸を直線にして整理するには、おそらく数万文字は書かなければならないでしょう。それは不可能ですが、少しでも糸を整理するために、やはり書く作業が必要なのです。書いているうちに、だんだんと考えていることがはっきりしてきます。

外山さんは、「書く作業は、立体的な考えを線状のことばの上にのせることである。」(p136)と述べています。考えをきちんと整理したいとき、しなければならないとき(文書や論文作成)には、まず、書いてみることがスタートなんですね。



 「セレンディピティ」という現象
ここから少し、「考える」という主題から逸れますが、知ってて必ず役にたつ内容なので、紹介したいと思います。

誰しも一度は、学校の試験の前日になって、勉強しなければならないのに部屋の掃除をしてしまったり、普段は決して読まない本なんかに手を出してしまう経験があると思います。勉強しなければならないときなのに本を読んでしまい、その本を読みふけってしまう。結果的に本来の勉強の予定は大幅に狂ってしまったが、本の内容を知ることができた。これを少し抽象的に言い直すと、「中心的関心よりも、むしろ、周辺的関心のほうが活発に働いた」ということになります。この考え方が、セレンディピティ現象の考え方です。ちなみにセレンディピティは過去の人の造語です。

また別の例では、学校の授業で、教科内容はつまらなくて身についていないけど、先生の話す雑談や、一見どうでもいい話をよく覚えている、ということをしばしば耳にします。それに、「あの先生の授業はうんちくを教えてくれるからおもしろい」という生徒の声も何度か聞きました。これも、「中心的関心よりも、むしろ、周辺的関心のほうが活発に働いた」例ですね。

私は教師を目指していますが、授業を組み立てるうえでこの考え方はとても参考になります。まあ、雑談や脱線と呼ばれるものを組み立てるというのも変な話ですが。笑

外山先生も、
「教師も脱線を遠慮するには及ばないのである。われわれは、そういう気軽な話のうちに多くのことを自らも学び、まわりのものにも刺激を与える。」
とおっしゃっています。



○ 「見つめる鍋は煮えない」
これまで、朝に考えること、三上で考えること、寝させて考えること、しゃべって考えること、書いて考えること、セレンディピティについて述べてきました。これらすべての考え方に当てはまり、本書の主旨をとらえた考え方が、「見つめる鍋は煮えない」という慣用句で表されるのではないかと考えました。本書でも何度か繰り返し登場する慣用句ですが、本質をうまく表現していることばだなあと感じます。

ずっと鍋を見つめていては、なかなか煮えません。少し目を離し、また再度注目したときには、確実に煮えは進んでおり、もしかすると煮つまっているかもしれないですね。

例えばこれを「悩み事の解決」に照らしてみましょう。

夜暗い部屋で悩んでもネガティブなほうへいくだけなので、朝頭が整理され、すっきりした状態で悩みましょう。それは悩み事ですらないかもしれません。
ふとリラックスできるようなトイレの中や、風呂の時間、車のなかなんかでぼんやりしていましょう。ふと解決策が思いつくかもしれません。
人に話してみましょう。人からアドバイスをもらうためだけではなく、しゃべることで声に考えさせます。
書いてみましょう。頭の中の糸が少しずつ一直線になっていき、なぜ自分が悩んでいるのか、何に悩んでいるのかがはっきりするはずです。

これが今回のブログのまとめです。「悩み事の解決」だけではなく、会社のタスク、論文の作成、授業の組み立てなど、考える作業を要するものにはすべて適応できます。しかしながら、考える作業を要するものという言い回しも滑稽ですね。人間は「考える葦」とも言われます。ただ機械的に時間が過ぎるのを待つのではなく、考えるという人間的な行為を忘れずに、そしてそのときには「見つめる鍋は煮えない」という先人のことばを思い出しましょう。そして、考えることを通して生活がよりよくなっていけば、それはいいことですね。


以上

前回、モラトリアムでネット廃人のような自らの趣味を露呈するクソみたいな投稿(汗)をしてしまったので、できる限りまじめに取り組みました。バランスを求めていきたいと思います。