心理的にやっと落ち着いたのでしょうか、文章を書く時間がようやく取れました。
冨樫さんよりひどい休載でした。
前回の投稿からの生活の変化をざっくり書くと、
福井県で高校教員として就職し、
結婚のため神戸へ移住し、
中学校教員として勤務し、
もうすぐ息子が爆誕します。
今回は、
「中学校教員として2年半を終えての学びと思考」
を書き起こして文章で残し、みなさんと共有させていただきたいと思います。
1.クラス担任として
中学校担任は感情労働でした。クラスの生徒はとにかくかわいくて、愛をたっぷり注ぎ、生徒からも愛をもらいました。初担任の1年5組では一生忘れない濃密な時間をすごしました。生徒がサプライズで入籍祝いをしてくれたり、新婚のプレゼントとして合唱コンクールで全力を注いでくれました。泣かされました。
うれしいことはたくさんありますが、担任として難しいのは、「学校や学年で足並みをそろえなければならないこと」と「集団をまとめる工夫」でした。
〇学校や学年で足並みをそろえなければならないこと
中学校独特の文化の中では当然のことなのですが、校則やマナーを私の常識や許容範囲で判断するのでなく、隣のクラスや上下の学年と足並みをそろえることに神経をすり減らしました。シャツを入れることや髪を染めないといったことは受け入れられる(「当然」でなく、「受け入れられる」)のですが、常に学ランのホックをしめることや、食事のときにあまりしゃべらず机を前に向けて食べることなどについては、個人的に受け入れづらいまま生徒に課していました。
これらの決め事は、「1つを許すと際限なく生徒の規範意識が崩れていく」という中学校教員の共通認識から生まれたものだと考えます。例えば、ホックが外れていると第1ボタンを開ける、第1ボタンが開くとシャツを出す、シャツを出すと髪を染める、髪を染めると非行にはしるといった具合です。それを入り口で食い止めようという中学校の現体制もよくわかります。
しかし、私はシャツを出しても髪を染めても構わないと思っています。なぜなら学校で大切なことは生徒が「学力を高めること」とか「集団生活の中でコミュニケーションの取り方を身につけること」であり(※個人の意見です)、その目的を達するための方法としての「シャツを出さない」は、今の時代にあっていないと考えるからです。現在も未だ、恐い先生が上から抑える(「クラスを抑えている」「あの先生は生徒を抑えられない」という言い回しは現場でよく聞こえてきます)という方法で、上記の目的を果たそうとしています。しかし、近年のスマホの普及やSNSの流行もあってか、そういう理不尽な指導では子どもたちは動きません。賢くなってきている今の子どもたちは、極端にいえば「学校は勉強したり、集団生活の中でコミュニケーションを学んでいく場だから、その目的に向かって進んでいこうね」と目的を共有すれば、そこに向かって進んでいくのではないかと思います。もちろん、シャツは出しますし、おしゃれな家庭に生まれた子は化粧などのおしゃれをしてくるでしょう。しかし、それらは大人が普段当然のものとしてやっていることであり、自然なことです。
(話はぶれますが、SNSによって、若手教員の私や子どもたちなど社会的弱者に表現の場が提供され、お互いの本音を共有してきたことによって、私たち弱者が「おかしい」と感じることに自信をもって「おかしい」と言えるようになってきたのではないでしょうか。そういう意味で、子どもたちも「賢く」なってきたと感じています。)
確かに「子どもたちとの目的の共有で目的は果たされる」という考えは性善説的で、現実にはおしゃれに目覚めたり恋愛にドはまりしたり、学校を欠席しがちな子も出てくるでしょう。しかし、それは今の時代に私たちが大学で、あるいは大人になってから多くが経験していることではないでしょうか。その経験を中学校でしたとして(言い換えると「こけた」として)、それでいいのではないでしょうか。「中学校での勉強なんて何の役にも立たない」(ホリエモン)というのは極論ですが、今の時代立ち直れないことなどありません。
要は、もっと自然な形で子どもたちが勉強する環境ができたらなあと思います。
〇集団をまとめる工夫
話を戻し、現在の学校教育の中で集団をまとめるには、「抑える」形での指導を私もしています。しかし、そんな状況あっても「行事に向けて心に火をつける」工夫や「温かい学級をつくる」工夫は必須です。これらにあたっては先輩教員や多数の書籍(例えば『プロ教師のクラスがうまくいく「叱らない」指導術』(学陽書房))を参考にしています。
教室の後ろを掲示物でカラフルにしたり、教室をきれいに保つなどいろんな小技はありますが、3年目の私が今一番大切にしているのは「自然体」です。おもしろかったら笑うし、疲れていたらその感じを出すし、生徒への愛も前面に出しています(キモくない程度に笑)。「自然体」が一番いい指導になるよう、自分がもっと徳のある人間にならないといけないなあと思っています。
2.英語教育者として
大学と大学院で6年間学んだ知識や体験が、授業経験を積むにつれて血肉となっていくのが面白いです。技として胡子美由紀先生(広島県教員)を師とし、精神として柳瀬スキンヘッド陽介先生(広島大学教授)を師として意識してきました。
胡子先生をまね、帯活動20分+教科書30分を授業の基本として、帯活動は豊富な活動時間と質、教科書は定着と深さを求めてやってきました。お坊さん(=柳瀬先生)を心に浮かべ、英語が”身体”にしみこんでいくようなイメージを大切にして授業準備と実践を進めました。
今後まだまだやってみたい実践がたくさんあって、今は小さくまとまってしまった感が否めません(中3で受験があるので、いまさら大きな変革もできません)。もっともっと授業力を高めて、生徒たちが「英語はなぜか得意」と言ってくれるようにしていきます。
つらいのは、中学校ではその独自の文化から、授業準備に避ける時間が極端に少ないことです。一番やりたい授業準備が実際一番できません。
3.部活動顧問として
市最弱の男子バレーボール部を持たせてもらい、3年目です。専門のバドミントン以外のスポーツをきちんとしたことがなく、本当にゼロからのスタートでした。子どもたちが素直な子らばかりだったのでよかったですが、1~2年目の土日を含めた毎日の部活動には、辟易としたこともありました。バレーボールやかわいい子どもたちから、チームスポーツの良さを学びましたし、自分の学年の子の引退試合では保護者や子どもたちからのサプライズに泣かされました。
部活動について始めから一貫して思うのは、部活動は中学校教員が相当な労力を投じる仕事であるべきではないということです。
ちょっとここで経済面から考えてみます。私の年収を384万円とします(実際そのくらいです)。一月に32万円で私は雇われています(ボーナスも加えて換算)。一月に20日働くとして、神戸市は私を日給1.6万円で雇っています。1日の実働勤務時間を12時間として、時給0.13万円。一月のうち、部活動に割く時間を少なく見積もって50時間とすると、一月に6.5万円を神戸市は私に支払ってバレーボール部を持たせています。年にすると78万円です。これだけのお金をもらって私はバレーボールを教えていることになりますが、年俸78万円分の働きを私ができるでしょうか。まったくできていません(笑)せいぜい年俸5万円分くらいでしょうか。
この78万円でバレーボール経験者の外部指導員を雇えば、
私は18時には退勤でき、週休完全2日制になり、英語の授業準備や英語力の研鑽により多くの時間を割けます。
世の中のバレーボール経験者でチームを持ちたい人の職にもなります。
何より、子どもたちがよりよい技術指導が受けられます。
(この単純計算でいくと私の年収は306万円(泣)それでも、それが社会全体としてよりよいかなあ。)
部活動が生徒指導上で重要視されていますが、それは前時代的な前提に基づいた考え方だと私は思います。
4.中学校文化について
ここまででも触れてきたとおり、中学校は一言でいうと体制が古いです。ホックまでしめることを課したり、静かに速やかに昼食をとらせたり、硬いイスに座ったまま長時間前を向いていることを強要したり、、、これら「昔から」やっていることは今の時代にあっていないと感じる(「おれらのときは当たり前だった」という年配教員のセリフが大嫌いです)し、私は「古き良き慣習」だとも思えません。おそらく中学校という場所は最も保守的な文化をもつ場の1つなので、一気に変わることはありません。
そういう場にいるからこそ、せめて私は今考えていることを文章にして、「現場の若手の小さな声」としてこの投稿をしました。
少しずつ体制が変わり、子どもたちが自然な環境で勉強や学校生活に取り組んでいけることを望みます。私は今の現状を受け入れつつ、少しでも英語の授業準備や英語力アップに時間を割き、授業力を磨いていこうと思います。
息子爆誕を心待ちにしながら。
柳瀬先生いじってすみません。
先生や懐かしいゼミ生にお会いしていろんなお話聞きたいです。