こころの形成ーことばの役割とは
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内臓とこころ (河出文庫)三木 成夫 (著) |
…題名と表紙を一見すると、少しとっつきにくいでしょうか(笑)
この本は、僕が「腑に落ちることば」って何だろう?と疑問に思っていたところに、Y教授がご好意で貸してくださったものです。
”はらわた”というキーワードから、物事を本質的に捉えています。我々の内臓ははるか大きなもの(太陽系)と共鳴しており、それが生活に表面的なものとして現れてくるという話や、幼児がことばを発することが、こころの発達とどう関わっているかといった内容です。
「知に働けば角が立ち、情に悼させば流される」(夏目漱石)ことなく絶妙なバランスで書かれており、その理論的かつ情あふれる内容に没頭してしまう本です。
((「内臓感覚が宇宙と共鳴する」という内容は本全体にわたるテーマなのでまとめきれません。突飛な発想だ、と思われると思いますが、気になる方は本書を。))
● こころとあたま
・「あたま」は判断とか行為といった世界に君臨する。
・「こころ」は感応とか共鳴といった心情の世界を形成する。
・”切れるあたま”とはいうが”切れるこころ”とはいわない。”温かいこころ”はあっても”温かいあたま”はない。
・一言でいえば、あたまは考えるもの、こころは感じるもの。
・例えば、秋の情感を表す「さわやか」という言葉は、胸から腹にかけて、なにかスーッとする内臓感覚が中心になっている。これは”こころ””はらわた”で感じるもの。
● こころの形成― 子どもの”なめ廻し”
・子どもは舌の感覚でもって人間の「知覚的基盤」を固めていく。
・6ヶ月が過ぎて首が座って手が自由になると、手当たり次第にものを舐めだす。
・我々がコップを見て”丸い”と感じるのは、”なめ廻し”と手での「撫で回し」の記憶が混然一体となって根強く残っているから(”距離感”に関しても同様)。
● こころの形成― 指差し
・”あたま”は”こころ”で感じたものを、いわば切り取って固定する作用を持っている。子どもはこの世界を”こころ”だけで感じ取っている存在だが、この切り取りと固定の”ハシリ”ともいえるのが指差しである。
● 言葉の獲得―象徴思考
・子どもは満一歳半になると「コレナーニ?」「コレハ?」とひたすら聞きます。それまでぼんやりとして映らなかった世界が、にわかに色鮮やかに、眼の前に迫ってくる。その一つひとつが驚きなのでしょう。
・子どもがみて感じ取った世界は、何物かによって留めておかなければ、宙に浮いてしまいます。これは、幼児たちにとってはそのままやり過ごすことのできない切実な問題です。そこで幼児たちが求めるものは印象です。印象という文字はものの本質を表しているように思われる。印はハンコ、象はあの朱肉に残った文様です。幼児たちは、このかたちの持つひとつの実感を求めている。ここです。つまり、彼らの求めているのはそのようなひとつの実感ですが、ここではそれを「言葉」として求めているのです。いいかえれば肉声の織り成す、そうした文様でもって、それを実感しようとしている。要するにその名称ですね。。。その名称の持つ音声の響きに、耳をそばだてているのです。「コレナーニ」「ナ・メ・ク・ジ」(いかにもナメクジらしい響きではないでしょうか)。。。
・この”もの”と”なまえ”の一体化した二者一組の体得―これはあの指差しから始まっているのです。
・大人でも珍しいものに出くわすと、思わず「ナンダコリャ!」。要するに「言葉」を求める。「なんと申しましょうか...」というあれです。
以上、本質の”内臓”の話しを抜きにしてツラツラと記述してしましました。気張ってチャッカリまとめたかったのですが、長くなりそうなのでこの辺で。
最近、英語教育についての本ばかりつい読んでしまっていましたが、こういう本は本当に面白いです。

こころで受け止め、あたまが切り取って固定するというのがとても印象に残りました。
返信削除塾や教育実習で授業をしている時に「今の声かけはうまく行った」とか「あれは失敗だった」と授業の最中に判定することはなかなか難しいと感じます。しかし、授業中もうまくいかない時には焦りをこころが感じることはたくさんあります。授業のあとに「あの発問をした時に自分は焦っていたから、そこはうまくいっていなかったのか」と気付き、それを基によく振り返りを行います。これも上記の一例に含まれうるのではないかと思い、コメントを書かせて頂いた次第です。
「腑に落ちる」の発表は聞いていて自分の日常生活を違う見方で考えることができて面白かったです。以下に個人的な考えを述べさせていただきたいと思います。
あることばが「腑に落ちる」かどうかは、そのことばが受信者の経験に根ざしているかどうかによって決められるのではないかと思います。僕が中学1年の頃に名古屋の中学でcatの/ae/ という発音を習ったときのことです。教科書には「アとエの中間の音」と書かれていましたが、自分にはいまいちピンと来ませんでした。しかし先生が「要するにcatは、みんなが”えびふりゃー”と言う時のあの口の形なんだよ。」と説明されて、一発で理解できました。そのおかげで/ae/の調音法が身についたのだと思います(勿論、自分の発音に落胆することは多々ありますが笑)。
この例で言えば、「アとエの中間」というのは、私達日本人にとっては経験しないことです。一方「えびふりゃー」は名古屋市民であれば必ず耳にしたことはあるはずです。先生は私たちの経験を考慮して、「腑に落ちる」であろうことばを説明に入れたのだと今では思います。
「腑に落ちる」の先輩の発表はとても興味深く、自分の生活で使うことばを改めて見直すキッカケとなりました。また新しいことが何か見つかりましたら、教えていただけると幸いです(^^)
mochiさん、コメントありがとうございます。
返信削除「腑に落ちる」というキーワードでいろいろと調べ、Y先生にもアドバイスをいただいて来ましたが、院での研究としては断念しそうです。ゼミでの発表が興味深いとおっしゃってくれただけに残念ですが...
mochiさんがおっしゃるように、腑に落ちるのは個人個人の経験に基づいていることなので、一般化を図るのが困難です。しかしこの分野には個人的に大変興味をもっており、これからも“研究”としてではなく、“趣味”としていろいろと本を読み、考えていきたいと思っています。
「えびふりゃー」で/ae/の発音指導されれば、生徒も一発でくいつきますね。笑 理論(ex.舌の位置の指導)で説明するのは誰でもできますが、こういう風に生徒側まで降りてきた説明ができるのは、本当に難しいことです。
もっと英語学習の理論を勉強し理解したうえで、中学、高校生が“経験的に”わかりやすい説明を(おそらく今後ずっと)考えていく必要があるでしょうね。教授法の勉強もそういった意味で面白そうです。
ブログを読んで浮かんだことは、ことば一つ一つが内包する意味は、言語を運用している我々が思っているより複雑であると感じたことです。「あたま」は考える部位で、「こころ」は感じる部位である。このようなことは、通常生活をおくる上で、なかなか気づかないことです。しかしながら、我々は「あたまが温かい」とは言いません。誰に習ったでもないことを、我々は知っているとは、不思議ですね。
返信削除母語は意識的な学習も無しに、このような高度なことまで習得できるのに対し、第二言語の場合はなかなかうまくは行きません。かといって、「head」と「heart」を一生懸命学習するのも変な話ですしね。
こういった、「腑におちる」という表現、個人的には単純に「気づき」とほぼ同じものなのでは、と考えました。非意識が意識に変わる、違和感が理解できる。「腑に落ちる」と「気づく」はかなり共通項の多い表現ではないでしょうか。
学習の中で、「気付き」は重要だと言われています。言い換えれば、授業の中で、腑に落ちることも必要なんでしょうね。
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返信削除コメントありがとうございます。
返信削除多少主観が入り混じるかもしれませんが、私は「腑に落ちる」と「気づく」ことは本質的に異なるのではないかと考えています。
まず身体に関しては、「腑」は臓腑、つまり“はらわた”、体の中心にあります。そして「気づく」のは“はらわた”でなく「頭」です。メタファーの方向性(『Metaphors we live by』参照)から言うと、「腑に落ちる」のはUNKNOWN IS UP (ex. That's up in the air.)/ KNOWN IS DOWN(ex. The lecture went down with me.)のメタファーが基盤となっています。しかし、「気づく」のはCONSCIOUS IS UP (ex. Wake up.)/ UNCONSCIOUS IS DOWN (ex. He fell asleep.)というメタファーに近い基盤を持っているのではないでしょうか。
また、「腑に落ちる」のは自らの経験が基となって生じるものであり、「腑に落ちる話でした。」「どうも腑に落ちないなあ...」(「腑に落ちない」が派生して「腑に落ちる」という表現が生まれたという説があります。だから正確には、「腑に落ちない」という表現の方がしっくりきます。)という使い方をします。一方「気づく」というのは頭やもっと上の方で「ひらめく」という意味をもってはいないでしょうか。例えば「アイデアが“浮かぶ”(An idea came "up" to me.)」という表現に近い気もします。
しかし、例えば数学の正解に「なるほど。気づいたわ、ありがとう」とも言えるし「なるほど。腑に落ちる説明ありがとう」とも言えなくはないですよね。だから明確に区別するのは難しいと思います。上記に書いたような違いはありますが、全く違う表現だというのも間違いでしょうし、同じ事だ、というのも誤りでしょう。ことばに敏感になり、つらつらと述べてしまいましたが、結局kikkawaさんがおっしゃる「かなり共通項の多い表現ではないでしょうか」ということは間違っていないですよね。
まとめると、授業において、例えば「腑に落ちる」文法説明や読解をして、何かに「気づかせる」ことが大切なのではないかなと思います。
そして本当に伝えたいことを生徒の「腑に落とす」語りをできる教師、あるいは生徒自身に間接的に「気づかせる」ことができる教師が、私はすばらしい教師だと思います。
ブログ記事を読ませていただきました。個人的に興味深いと感じたのは「象徴思考」の部分です。
返信削除>その名称の持つ音声の響きに、耳をそばだてているのです。
「ナメクジ」は確かにナメクジっぽい響きですよね……
些細な疑問なのですが、同じものを指しているのにも関わらず音声の響きによって印象が異なることはあるのでしょうか。例えば、個人的には「牛乳」よりも「ミルク、milk」の方が「クリーミー且つお洒落」な印象を受けます!!!!
英語では、「音声の響き」が特定のイメージを創り出し、それが単語の形成に関係することもあると耳にしました。(真偽はよく覚えていませんが汗)
言語間の、「音声の響きが持つイメージ」の共通点・相違点が解明されたら面白いですね!(^O^)
分かりやすい解説をありがとうございました!腑に落ちました!