A Warrior in Elemental School Education
―菊池省三先生のセミナー・懇親会に参加して―
今日は「ほめことばのシャワー」で有名な菊池省三先生にお話しを伺いました。
ご存知の方は多いかと思いますが、菊池先生の簡単な紹介をしておきます。先生は北九州市の小学校教員で、荒れているクラスを「ほめことばのシャワー」代表される独自の方法で、見事に立て直すことで有名です。何度もテレビ・新聞などのマスメディアに取り上げられ、今最も注目されている教育者の一人です。
そんな菊池先生のセミナー・懇親会に参加させていただいて多くを学び、そこから自分が考えたことを含めて、キーワード毎に今回は書きたいと思います。
☆「ほめことばのシャワー」
先生は毎日、朝の会で「ミニライフ・ヒストリー」、帰りの会で「ほめことばのシャワー」という活動を行っています。
まず前者の「ミニライフ・ヒストリー」とは、一人が前に立ち、その子に向かってクラスの全員がいろいろな質問を展開していくという活動です。例えば、「最近、自分を笑顔にしてくれたことは?」「自分が人を笑顔にするのと、自分が笑顔にされるのとどっちが好きですか?」といった質問をしてきます。何のためにそのような活動をするのでしょうか。それは、私は「他人を思いやることのできる子どもを育てること」であると考えます。
(実は、上記の例のような質問事項は、菊池先生が2年間かけて、徹底的に子どもの人間性を高めた段階で出る質問なんです。上記のような質問ができる子は、本当に素敵です。そういう子に変えることができる菊池先生のすごさが、上記の子どもの質問から垣間見えます。肝心な、「菊池先生はどういう指導をしてるの?」というのはご著書『「ことばのシャワー」の奇跡』などをご覧下さい。)
以下には、「なぜ先生は子どもにほめことばを浴びせるのか」ということに関して、私の見解を述べます。
先生は、「価値語」と呼ばれる、こどもたちが変わるために必要な「教訓」をもっています。「教訓」は、人生の先輩として、教師が生徒に伝えるべきものです。例えば、相手を思いやることは大切だよ/いじめは絶対にいけないよというものから、前を向いて座るんだよ/姿勢をよくしなさいといったことまで様々です。しかし、先生がもつようなこどもは、始め髪が明るかったり、自分の立場を保つのに友達を無視したりするような子たちです。そのような「素地」もなっていない子どもたちに、いくら教訓や指導を諭しても、こどもが聞く姿勢を持っていないのですから効果は発揮されません。それどころか先生との溝は深まるばかりです。
そこで、菊池先生はまず信頼関係を築こうとします。それは、子どもを見て、ほめれる点を見つけてほめることです。そしてとにかくほめ、また仲間からも互いにほめさせ、それが「自分はみられている、他人がみてくれている」という安心感に繋がります。あるいは、仲間の良い点を探す訓練になります。そうなったら、いじめなどは起きませんよね(なぜならいじめは、他人の欠点を責め立てるものだからです)。
そうして子どもたちに「素地」が出来た段階で、少しずつ人間を変えていきます。しかしもちろん突然子どもが聖人のようになるはずもなく、そこで先生は「ほめことば」を使います。「価値語」と一緒にほめことばを添えて、子どもに提示するわけです。例えば、「何ページまで音読し終わったら座りなさい」という指示を与えたとして、みんなが音読を終えて座った後でも、一人の子が音読を続けたとします(実はみんな音読が残ると恥ずかしいから、読み終わっていないのに座っている状況)。そこで先生はすかさず、その子を相当ほめます。そこで何が起こっているかというと、「自分に正直にいることはすばらしい」というメッセージが子どもに暗に伝わるわけです。もちろん明示的にことばで諭したりもします。先生はそれに留まらず、「一人が美しい」という表現にその出来事を表し、以後そのクラスで「今の行動(例えば誰も立候補しない委員長に立候補すること)は『一人が美しかった』ですね」とするそうです。クラスでの新語を作っています。(私はここに感動しました。。。)
要するに、先生が子どもをほめる理由のひとつは、価値語を添付して子どもに伝え、成長させるためだと思いました。
☆教師の精神~戦う教師・菊池省三~
先生の指導理論・方法に関しては、興味のあるかたは先生のご著書を読んでいただければと思います。私は小学校教師希望ではありませんが、そこから学ぶことは山のようにありました。
ここからは、懇親会を通して菊池先生から学んだ、教師としてのあり方を書かせて頂きます。
題名にもつけましたが、正直言って菊池省三という方は戦士(Warrior)です(笑)
なぜか。
まず、先生のいわゆる「荒れている子どもたち」との戦いは、4月の離任式(あるいは入学式)開始と共に合戦の合図がなります(こんなこと書いたら怒られそうですが。。。)。先生はそこで先手を打ち、ヤンキース軍団の4番バッター(笑)から順にほめれる点を見つけます。そして先制攻撃をその4番バッターから5番バッターへと順に仕掛けていくわけです。そうして先手を打ち、少しずつ信頼関係をつくってから人間を変えていくそうです。
あるいは、子どもを叱るときは 教師と他の子ども 対 叱られる子ども という構図で叱ります。一見聞こえは悪いですが、教師が1人だと負け戦になり、効果は発揮されないからです。私が尊敬する広大の某Y教授はそれを「兵法だ~これこそ兵法だ~」とおっしゃっていました(笑)そういう風にして、大好きなクラスの子どもたちだからこそ日々戦っているんだと思います。
そして何より先生のすばらしいのは、「上」と戦う姿勢です。私が懇親会に参加して得たもっとも価値のある学びは、ここです。
菊池先生くらい独自な教育をされていると、制度だとか決まりだとか...そういったものを片手に持つ権力者や評価者(教育委員会とか校長とか)にとっては面白くないそうです。だから彼らはそういった教師を抑えようとしてきます。現場の現状もしらないで、理論だとか風習だとかを押し付けます。それに抗うのは、相当にしんどいもので、だから多くの教師はそういった評価者の目を気にして自分が正しいと思うものから目を背け、見(え)ないようにしています。それは先生に怒られまいと先生ばかりを気にする子どもと何ら変わりません。
権力者に迎合するのではなく、抗って自分のスタイルを作っていき、それを維持しているのが菊池省三先生です。その姿勢がいずれはとても大切になることを学びました。では彼の原動力は何かというと、それは週に1度の教師の私塾とのこと。金曜の晩から土曜の朝方までぶっ通しで、毎週教育論を語りあうそうです。そこでできた仲間が先生の原動力の一つであるそうです。*1
私も将来、評価者に迎合せず、自分の教育観をしっかりと見つめていける教師になるべく、そういった私塾も考えていきたいと思うようになりました。
以上、最後は菊池先生の「ほめことばのシャワー」とは大きく外れてしまいましたが、セミナー・懇親会の感想でした。一級の達人にお会いすることが本当に自分の身に為ります。
*1 「原動力」について
1、上述の毎週の教師の私塾
2、評価者からの圧力に対する反抗心。「こいつめ、なにくそっ!」という怒りが原動力に。
3、「憧れに憧れる」
やはり教師たるもの、より良い授業を求め続けることが原動力となる。いい授業をみたり、人に会ったり、本を読んで研鑽を積み続けることが最も大切である。教育者で「化け物」がいれば会いに行って、時にはそれが大切なつながりとなる。フットワークは軽く。

読み直して、改めて感じられたのですが、表面的にカリスマ講師のテクニックを盗んだ所で、きっとうまくいかないことが実感出来ました。
返信削除例えば、小学生がプロ野球選手の投法を真似して試合で使用しても全く意味が無いように、その技法を用いる経緯・適正・場面が異なれば、なかなか効果を発揮出来ません。菊池先生の「ミニライフ・ヒストリー」に共感し実践したとしても、なかなか効果を発揮しないでしょう。
後半で述べられているように、戦う教師の精神、こちらの観点のほうがよっぽど重要と感じました。全ては、生徒理解に還元されるとも感じます。生徒を目の前にして、その生徒に適切な指導・対処は何なのか。適した指導が制度と一致しているとは限らないわけで、その枠組と戦わなければならない時があるわけで。実際は四角い「生徒」を、何も考えず丸い「制度」で捉えようとするから、取りこぼしが生まれ、枠にも隙間ができ、彼らは安定しない。
制度は完全な悪ではない。経験を積んできた先人が制度を作ることによって、我々は効率的に対処出来ます。マニュアルがあれば、多少の問題が起きても冷静に対処出来ます。しかしながら、完全ではなく、あくまで制度は骨組みであって、そこから柔軟に対応していく姿勢は忘れてはならないことと思います。
また、我々が管理する側に回った際に、「何故、我々の制度を全うせず、自分勝手な行動をとるのか」「その身勝手な動きで問題が発生した際に責任を負うのは、世間的には上の人間であり、我々の管理のもとで不当な処罰を受けるのは理不尽なので、とにかく制度に従え!」などの考えに陥らないように、常に両者の立場を踏まえたものの見方が求められますね。
コメントありがとうございます。
返信削除>表面上のテクニックを真似しても意味がない。
これは、こういった勉強会に参加する際に常に念頭におくべきことだと思います。活動だけ盗み出して、その活動を自分の教室の生徒の前で実践するだけでは何ら意味がありません。では、こういった教育の「達人」から学び取れるものは何なのでしょうか。私の考えるものは以下の通りです。
一、達人に会うこと、それ自体から学び取るものがある
教育において「達人」と呼ばれる人々は、それだけ教育者として(上手く言葉にできない)「何か」を持っています。達人が持つその「何か」に直に触れながら「達人」の指導法を学ぶことで、指導法が効果的になる背景がわかります。つまり、この達人はこういう顔で、こういう声で、こういう人柄で、こういう考え方をしていて、こういう生徒をもっているといったことを知って初めて、彼の指導法が効果的になる因果がわかります。すると、その指導法をどう自分流に変化させなければならないか、といったことがぼんやりと見えてくるのではないでしょうか。そうやって指導を取り入れていくのだと思います。
二、指導法の引き出しが増える
上記のように自分の中で噛み砕いて達人の指導法を取り入れると、教室で使える引き出しが増えます。それは、英語の指導であっても生徒指導であっても、引き出しの数が多ければ多いほど良いと思います。達人から盗んだ技をためておく「達人引き出し(笑)」のようなものをたくさん作ります。教壇にまだ立たないうちに、そういったものを貯めておければいいのですが。
真似することは、スポーツにおいても上達のためには不可欠なことだといわれます。特にまだ何色にも染まっていない私たち新人にとって(私はまだ新人ですらない、モラトリアム人ですが)、真似することはとても大切なことだと思います。
>制度という枠組みについて
Kikkawaさんが
「実際は四角い「生徒」を、何も考えず丸い「制度」で捉えようとするから、取りこぼしが生まれ...」
「あくまで制度は骨組みであって、そこから柔軟に対応していく姿勢は忘れてはならない」
とおっしゃったことには、とても納得させられました。比ゆ的な表現になりますが、四角い「制度」と丸い「生徒」の狭間に立たされるから教師は難しいのでしょうね。制度に教師がぴったりと収まってしまうと生徒を見れず、逆であると、極端に言えば学校教員という職業から追放されてしまいますし、そんな方は私塾でも開けばいいと思います。あくまで生徒一人ひとりを見ながら、制度の枠内に留まることが教師に求められるのでしょうが、それこそが難しいことなのでしょうね。
まだ教員になってもいないのに、危ないことを書いている気がします。。。笑