2014年3月30日日曜日

考えるための極意

この記事は、私が外山滋比古著・『思考の整理学』(ちくま文庫)を読み、考えを綴ったものです。

私は、院の2年間で「考える力をつける」ことを第1の目的としています。そんな私にとって、この本からもらった恩恵はとても大きいものでした。ちくま文庫のベストセラーでもあるこの本を、拙いながらも解釈し、(私にとっての)本書のエッセンスを取り出してみました。

(ここではハウツー本的な書き方になってしまいましたが、原著はそんな書き方ではありません。あくまで氷山の一角を取りざたしたまでです。)



○ 朝に考える
これはあらゆる本に書いてあることですよね。夜にだらだらと考えるのではなく、考えるに適するのはやはり朝です。

外山さんは「夜考えることと、朝考えることとは、同じ人間でも、かなり違っているのではないか、ということに気づいた。」(p22)
と述べています。

これはもちろん理由があります。私がもっとも納得した理由はをざっくり言うと、
「人は寝ているときに出来事や思考を整理する。頭がもっとも整理された状態でものごとを考えられるのは朝であり、よって朝に考える作業をすべきである。」
というものです。わかりやすくするために、部屋で作業することを考えてみます。部屋が服や書類、ごみなどで散らかっていると、勉強するにも、ちょっとした運動をするにも、探し物をするにも、何をするにも困難になります。人間の頭でいうと夜がこの状態ですね。朝起きて、仕事場にいき、作業をし、ご飯を食べ、運動をし、、、といったいろんなことが起こり、頭がいろんなことを思い考えた状態では、考える作業は困難になります。

やはり考える仕事、アイディアを出すこと、文章を書くことなどは、頭が整理された朝に行うべきなのですね。



○ 三上(さんじょう)で考える
その昔、中国に欧陽修という人が、文章を作るときに、すぐれた考えがよく浮かぶ3つの場所として、馬上(ばじょう)、枕上(ちんじょう)、厠上(しじょう)をあげました。馬の上で、朝にふとんの上で、便所にいるときに、ふといい考えが浮かぶということです。

これを現代にあてはめてみるならば、車にのっているとき(歩いているとき)、朝ベッドでぼーっとしているとき、トイレで便座にすわっているとき、となるでしょうか。しかし重要なことは、これはあくまで例えであり、本質は「一見無駄であるような時間こそ大切にせよ」ということだと考えます。

卑近な例で申し訳ありませんが、私は、少しでもボーっとする時間は、できるだけ排除しようとしながら生活しています。何もずっと生産的なことをしているのではなく、例えば「トイレで座っている時間は暇で、効率的じゃない。漫画おいとこう。」とか、「料理をしている時間にただ料理しているのは効率が悪い。よし、片手間でテレビつつ部屋を片付けつつやろう。」となります。要するに、「ながら生活」というのか、常に余裕をもたないわけです。

おそらく、こういった習慣をもっている私では、アイディアマンには決してなれないのでしょう。私が勝手に勘違いしている”効率のよい生活”を求め続ければ、つまり「考えるときはしっかり考える、考えないときは何も考えない」といった一見”効率的”なことをしていては、本当に柔軟で、ふとしたよいアイディアを生むことはできないのでしょう。

私はこの習慣を改めていかなければと反省しています。万が一、私に似たことをしている方がいるならば、今後運転している時間、朝の何気ない時間、トイレにいる時間も、何かし「ながら」でなく、なんとなしに徒然なることに思考をめぐらせてみてください。



○ 寝させて考える
先ほど、私は「『考えるときはしっかり考える、考えないときは何も考えない』といった一見”効率的”なことをしてい」ると述べましたが、これはもちろん、「『考えないときは何も考えない』ことは実は非効率だ」という意味です。その理由はこの「寝させて考える」という習慣にあります。

外山さんが本の中でおっしゃっています。
「本当の大問題は、長い間、心の中であたためておかないと、形をなさない。」

先ほど三上(さんじょう)について述べましたが、何気なしに自分でずーっと持っている疑問や考えるタネがないと、当然何も答えや発想は得られません。しかしながら、多くの人は、必ず何か疑問は常にもっているのだと思います。皆さんも、「あー、あれはこういうことだったのか!」と思う経験をしたことがあるはずです。これは、誰もが何かしら、大なり小なりの疑問をもっているということですね。

これを利用して、会社の仕事や、論文の作成、悩み事の解決策など、身近な問題を長期間で考える習慣をつけましょう。悩み事などもずっと悩んでいるのではなく、とりあえず寝かせておくわけです。あるときふと、「こうすればいいのか」、「こういうことか」と大なり小なりの解決策は出てくるはずです。これが「時間が解決してくれる」ということなのかもしれませんね。



○ しゃべって考える
「調子に乗ってしゃべっていると、自分でもびっくりするようなことが口をついて出てくる。やはり声は考える力をもっている。われわれは頭だけで考えるのではなく、しゃべって、しゃべりながら、声にも考えさせるようにしなくてはならない。」(p159)

私は、研究室で何気なく話すことは授業よりも収穫があると思っています。まあ別に収穫がなくても楽しければオールオッケーだけど、求めずとも、何かしら得るものがあります。

ゴシップや人の悪口(「他人の不幸は蜜の味」と言いながら、外山さんもこの欲求を不可避なものだとしています。)ばかりを友人同士でしゃべるのではなく、自分の疑問に思っていること(対人関係ばかりでなく!)をしゃべる習慣をもちたいですね。それを認めてくれる友人は、決して上辺だけの関係ではないと思います。



○ 書いて考える
「とにかく書いてみなさい」(外山滋比古)
「紙と鉛筆なしに考えることはできない」(柳瀬陽介)
ちょっと並べてみました(笑)。紙と鉛筆というのは比ゆですが、柳瀬先生も常々こうおっしゃっていますよね。

考えてから書くのは間違いです。よく勘違いされることですが、順序が違います。私は今まさに書いていますが、書くことで自分の頭を整理しよう、書くことで新たな発想を得たい、という目的もあって書いています。

書くことで頭が整理されるというのを、本書にあった比ゆを借りて説明したいと思います。
ぐじゃぐじゃに絡まった糸のかたまりを思い浮かべてください。これが本書を読み終えた(私の)頭の中にあります。その糸のかたまりを、できるだけ一直線にして頭においておきたい、そのために書きます。書いているうちに、だんだんと考えていることがはっきりしてきます。しかし、本書を読み終えて残る糸のかたまりは、一本の糸でなく、何本もの糸が絡まっています。そのすべての糸を直線にして整理するには、おそらく数万文字は書かなければならないでしょう。それは不可能ですが、少しでも糸を整理するために、やはり書く作業が必要なのです。書いているうちに、だんだんと考えていることがはっきりしてきます。

外山さんは、「書く作業は、立体的な考えを線状のことばの上にのせることである。」(p136)と述べています。考えをきちんと整理したいとき、しなければならないとき(文書や論文作成)には、まず、書いてみることがスタートなんですね。



 「セレンディピティ」という現象
ここから少し、「考える」という主題から逸れますが、知ってて必ず役にたつ内容なので、紹介したいと思います。

誰しも一度は、学校の試験の前日になって、勉強しなければならないのに部屋の掃除をしてしまったり、普段は決して読まない本なんかに手を出してしまう経験があると思います。勉強しなければならないときなのに本を読んでしまい、その本を読みふけってしまう。結果的に本来の勉強の予定は大幅に狂ってしまったが、本の内容を知ることができた。これを少し抽象的に言い直すと、「中心的関心よりも、むしろ、周辺的関心のほうが活発に働いた」ということになります。この考え方が、セレンディピティ現象の考え方です。ちなみにセレンディピティは過去の人の造語です。

また別の例では、学校の授業で、教科内容はつまらなくて身についていないけど、先生の話す雑談や、一見どうでもいい話をよく覚えている、ということをしばしば耳にします。それに、「あの先生の授業はうんちくを教えてくれるからおもしろい」という生徒の声も何度か聞きました。これも、「中心的関心よりも、むしろ、周辺的関心のほうが活発に働いた」例ですね。

私は教師を目指していますが、授業を組み立てるうえでこの考え方はとても参考になります。まあ、雑談や脱線と呼ばれるものを組み立てるというのも変な話ですが。笑

外山先生も、
「教師も脱線を遠慮するには及ばないのである。われわれは、そういう気軽な話のうちに多くのことを自らも学び、まわりのものにも刺激を与える。」
とおっしゃっています。



○ 「見つめる鍋は煮えない」
これまで、朝に考えること、三上で考えること、寝させて考えること、しゃべって考えること、書いて考えること、セレンディピティについて述べてきました。これらすべての考え方に当てはまり、本書の主旨をとらえた考え方が、「見つめる鍋は煮えない」という慣用句で表されるのではないかと考えました。本書でも何度か繰り返し登場する慣用句ですが、本質をうまく表現していることばだなあと感じます。

ずっと鍋を見つめていては、なかなか煮えません。少し目を離し、また再度注目したときには、確実に煮えは進んでおり、もしかすると煮つまっているかもしれないですね。

例えばこれを「悩み事の解決」に照らしてみましょう。

夜暗い部屋で悩んでもネガティブなほうへいくだけなので、朝頭が整理され、すっきりした状態で悩みましょう。それは悩み事ですらないかもしれません。
ふとリラックスできるようなトイレの中や、風呂の時間、車のなかなんかでぼんやりしていましょう。ふと解決策が思いつくかもしれません。
人に話してみましょう。人からアドバイスをもらうためだけではなく、しゃべることで声に考えさせます。
書いてみましょう。頭の中の糸が少しずつ一直線になっていき、なぜ自分が悩んでいるのか、何に悩んでいるのかがはっきりするはずです。

これが今回のブログのまとめです。「悩み事の解決」だけではなく、会社のタスク、論文の作成、授業の組み立てなど、考える作業を要するものにはすべて適応できます。しかしながら、考える作業を要するものという言い回しも滑稽ですね。人間は「考える葦」とも言われます。ただ機械的に時間が過ぎるのを待つのではなく、考えるという人間的な行為を忘れずに、そしてそのときには「見つめる鍋は煮えない」という先人のことばを思い出しましょう。そして、考えることを通して生活がよりよくなっていけば、それはいいことですね。


以上

前回、モラトリアムでネット廃人のような自らの趣味を露呈するクソみたいな投稿(汗)をしてしまったので、できる限りまじめに取り組みました。バランスを求めていきたいと思います。






2014年2月13日木曜日

高校英語の文法学習 -反転授業を目指して- (後半)

Youtubeから、高校英語の文法説明としてあがっている動画を集めてみました(分詞・関係詞・仮定法)。
使い方は各人に任せます。動画の選定は、私が主観で”より基本的で、よりわかりやすい”と判断したものです。

※1 5文型・時制・不定詞・動名詞については、(前半)で扱っています。
 
※2 (前半)では、反転授業に関連した前置きを書きましたが、それらはすっ飛ばして動画紹介から見ていただいても構いません。


3 分詞

いい動画が見つかりませんでした。。。下に、分詞を丁寧に説明してあるサイトを紹介しておきます。



4 関係詞

このレベルの文法になってくると、やはり説明が難しいんですかね。。。
サイトの紹介に留めておきます。
http://www.enavi.info/gra/gra-kan-1.html



5 仮定法







後半の分詞・関係詞・仮定法は消化不良のまま終わってしまいました。。。

見つけ次第、投稿しようと思います。
(よい動画があれば、教えて下さい。)






高校英語の文法学習 -反転授業を目指して-

Youtubeから、高校英語の文法説明としてあがっている動画を集めてみました(5文型・時制・不定詞・動名詞)。
使い方は各人に任せます。動画の選定は、私が主観で”より基本的で、よりわかりやすい”と判断したものです。

※1 分詞・関係詞・仮定法については、(後半)で扱っております。
 
※2 以下では、反転授業に関連した前置きを書きましたが、それらはすっ飛ばして動画紹介から見ていただいても構いません。





―今、日本の教育現場では、反転授業が注目されています。

反転授業とは、これまでは授業中に教えられてきたような学習内容を、生徒が家で自主学習し、授業では発展的なことを行うというものです。
 

英語教育でいうならば、例えば、新規の語彙学習や文法学習を生徒が事前にすませ、授業ではそれらの確認と、それらを使用した言語活動を行うことなどが考えられます。

考え方としては、私は反転授業はとても理にかなった指導形態だと思っています。

従来の教育に対する考え方では教師が中心におかれ、「”究極にわかりやすい説明”ができる教師ならば、小学2年生にだって二次関数を理解させる」というものでした。

私はこの考え方には賛成していませんが、ある種の説得力はあると思っています。

”究極”とは言わないまでも、”できるだけ良い説明”がされている動画させみせれば、ある程度生徒は学習内容を理解してくるでしょう。

新規の学習内容の説明は”説明がすごくうまい”他人にまかせて、自分は授業で生徒を前にして、自分とそのクラスの生徒たちでしかできないような授業をすれば良いですね。教育哲学者のJohn Deweyがいうような、1人1人のdisposition(性向;その時点での段階;これまでの人生経験が作るその人)に沿った授業展開ができるはずです。
(なお、John DeweyのDemocracy and Educationは約100年前に書かれたものですが、今の日本の教育にも多大な示唆を与えてくれます。)

そこで、将来の反転授業を目指して、ここでは”できるだけ良い説明”がされている動画をYoutubeから集めてきました。何もこれだけが反転授業の形態ではありません。しかし今回は、その一例として、高校英語文法の説明を集めてみました。例えば、これらの動画を用いて、授業前に文法事項の予習を行わせてもよいかもしれませんね(なおこの考え方自体、まだ良し悪しがわかりませんが)。使い方は各人に任せるとして、とりあえず動画を集めておきました。

※私の主観で、”より基本的で、よりわかりやすい”説明を、文法項目ごとに集めました。今回はYoutubeの動画に限定します。

1. 5文型













2. 時制
2.1  現在形・過去形・未来形とそれぞれの進行形





2.2  完了形








3. 不定詞・動名詞








※ 分詞・関係詞・仮定法は、(後半)にて。




2013年5月25日土曜日


身体性に重きを置く、非客観主義(経験基盤主義)とは?
-客観主義との比較を通して-

 
 私の好奇心は、「腑に落ちる」とはどういうことか、というところにあります。なぜわれわれは「理解をする」ことを「腑」に「落ちる」、あるいは英語では”to go down with one”などと表現できるのでしょうか。

それを解明するにあたり、「身体性」「メタファー」などのキーワードを得ました。
以下、客観主義との対比の中での非客観主義の立場をまとめ、人間の理解に身体性を踏まえることの正当性を示したいと思います。

今後、この興味を突き詰めるに当たり、アドバイスを頂けるとありがたいです。
最後の方に今後の展望も載せておりますので、ご意見、ご指摘、ご質問などございましたらコメントにお願い致します


※この先行研究は、私がMark Johnson The Body in the Mind: The Bodily Basis of Reason and Imagination およびその翻訳書(菅野盾樹・中村雅之訳『心の中の身体-理性と想像力の身体的基盤』)と、George LakoffWomen, Fire, and Dangerous Things: What Categories Reveal about the Mind およびその翻訳書(池上嘉彦・河上誓作・他訳『認知意味論-言語から見た人間の心』)を私の視点からまとめたものです。



<先行研究>

1 客観主義
非客観主義と対比するために、まずは伝統的な見解である、客観主義を以下にまとめたい。客観主義では、現実について形而上学的な見方をする。形而上学とは、現実のすべては「もの」からなり、「もの」はどんな時点においても成り立つ固定した属性と関係を有するとする考え方である。それは明らかな真実であって疑いようもないと(客観主義者によって)思われている世界観である。また、客観主義は人間の認知にも関心をもち、人間の正しい論理的思考とは何か、意味とは何かといったことなどを説明する。
以下、理性、意味、理解、身体に関して、客観主義の取る立場をみていく。なお、これらは2で示す非客観主義と対応している。

.1 理性
客観主義では、理性を行使する能力とは抽象的なものであって、必ずしも何らかの生物体の身体性に関わるものではないと考える。理性というものを文字通りのもの、つまり、何よりもまず客観的に真か偽のいずれかの値をとりうる命題に関わるものであるとする。そのような立場からすると、意味ある概念とか理性的能力といったものは、いかなる生物体の身体的限界をも超越したものであるとされる。たまたま意味のある概念や抽象的な思考が、人間・機械・その他生物体にそれらの身体の一部として組み込まれていることがあるとしても、それらの存在は抽象的なレベルのものとは関わりのないものである。

.2 意味
客観主義において、意味とは、文と「客観的な実在」との関係であるとみなされる。カルナップ(1947)は「文の意味を知ることは、文が可能な事例のどの場合に真であり、どの場合に真でないかを知ることである」と主張する。言語表現が意味を得るのは、現実世界や何らかの可能世界に対応することができること、あるいは対応しないこと、を通じてのみである。すなわち、言語表現は、(名詞であれば)正しく指示したり、(文であれば)真か偽であったりすることができる。
ここで、非客観主義との対比で重要になる問題を挙げたい。客観主義のパラダイムは字義と比喩を区別する。字義的意味は、客観的に真か偽か決まる意味である。また比喩表現(メタファー、メトニミー、心的イメージ)といったものは想像力の産物であり、それらは真の概念の領域からは追い出されてしまう。なぜなら、それらは客観主義世界の「もの」に対応できないためであり、また、概念は現実世界(あるいは可能世界)にある「もの」やカテゴリーに直接的に対応していなければならないためである。

.  理解
客観主義では、理解を引き合いに出すのを避けようとする。なぜなら、この語は、世界とわれわれを媒介する人間の主観性の役割を思い起こさせるので、この点が意味の客観性にとって重大な脅威だとみなされるからである。よって理解の身体化は、意味論にとって全面的に不適切なものとみなされる。

.4 身体
身体は、客観主義において無視されてきた。理由は2点あり、(1) 身体は意味の客観的本性とは関係ないとみなされた主観的要素を導入すると、客観主義において考えられてきたからである。また、(2) 理性は抽象的で超越的なもの、すなわち人間的理解の身体面には何一つ結びつきをもたないもの、と考えられてきたからである。
しかし、人間が存在する世界で身体に対して与えらる役割は存在し、その役割とは、(1) 抽象的概念に対してのアクセスを提供すること、(2) 超越的理性の型式を模倣する生物学的手段を提供すること、(3) 可能な概念や理性の働きの形式に対して制限を課すること、である。



  非客観主義(経験基盤主義)
次に、私が本研究にあたって身をおく立場である、非客観主義について言及する。まずは上述の客観主義との比較を、理性、意味、理解、身体の観点から行う。

.1 理性
非客観主義では、理性は、身体性を踏まえて成り立つものである。理性というものの持つ想像的な側面(メタファー、メトニミー、心的イメージ)が、理性にとって中心的な役割を果たすものと捉える。客観主義のように、想像的な側面を、文字通りのものに対する周縁的で取るに足りない付加物といったような受け取り方はしない。非客観主義における、理性の研究にとっての中心的な関心事は、(1) 思考する生物体の本性とは何か、(2) そのような生物体が自らの置かれた環境の中でいかに機能するか、ということである。そこでは、生物体(自ら思考し機能しつつ生存するもの)にとって、何が有意味とされるかということが問題となる。

.2 意味
意味とは、客観主義なら主張するような、単なる文と「客観的実在」との固定した関係ではない。一般に固定した意味とみなされるものは、沈殿し動きを止められた構造にすぎない。非客観主義では、意味とは常に理解の問題であると考える。理解とは一つの出来事であり、人はそのさなかで世界をわがものとする。非客観主義の立場において、共通世界にかんするわれわれの経験を構成するのはこの理解であり、こうしてわれわれは共通世界の意味を了解しうるようになる。
客観主義的な意味論では全体を説明しえない意味現象に関して、非客観主義は、意味現象を説明しうる鍵となる3つの観念を持つ。それらは、理解、創造力、身体化である。以下に、理解と身体について言及したい。

.3 理解
非客観主義における理解とは、われわれが世界を理解可能な実在として経験する仕方である(「世界をわがものとする仕方」ともいえる)。それゆえ、このような理解はわれわれの存在全体に関わる。存在全体とは、身体能力や技能、価値、気分や態度、すべての文化的伝統、言語共同体との結びつき、美的感受性などのことである。また、非客観主義における理解とは、われわれが身体による相互作用、文化制度、言語的伝統、そして歴史的文脈を通して世界に位置づけられる仕方でもある。こういったものが混ざり合って、現にある通りのわれわれの世界を現出させているのである。(5.2と5.3で触れることになる、)イメージ・スキーマとその隠喩的投射はこの「混合」がもつ原初的なパターンである。

.4 身体
非客観主義において、身体は人間の理性、思考などにおいて中心となるものである。理性の営みは、身体によって可能にされるものとされる。人間の理性は、人間という生物体、ならびにその生物体としての個人的、集団的経験に寄与する、「すべての事柄の本質」から生じてくるのである。(「すべての事柄の本質」には、それが住む環境の本質、その環境の中でそれが機能するやり方、その社会的な機能の本質などが含まれる。)また、思考も身体性と関わるものである。われわれの概念体系を構築するのに用いられる構造は、身体的な経験に由来するものであり、それとの関連で意味を生み出す。そして、われわれの概念体系の中核となる部分は、知覚や身体運動、身体的、社会的な性格の経験といったものに直接根ざしている。
このように、身体は人間の理性、理解、思考などあらゆる側面において、中心となるものである。



  客観主義と非客観主義が共有するもの(基礎実在論)
 ここまで客観主義と非客観主義を対比させてきたが、両者が共有している考え方がある。それは基礎実在論と呼ばれ、基礎実在論は少なくとも以下のような特徴を持つ。
-人間にとっての外界と人間の経験から成るような、現実世界というものが存在する
-人間の概念体系と、現実の他の諸側面との間の何らかのつながり
-内的な整合性だけに基づくのではない「真理」の概念
-外界についての確実な知識の存在
-どのような概念体系の間にも良し悪しの差はない、という見解の拒否 



4 客観性
客観主義において、客観性とは、物事を神の視点からよりよく見るために、主観的、身体的な側面の全てを排除することを意味した。それに対して、非客観主義では、客観主義における神の視点というものを否定した。けれども、これによって客観性ということが不可能になるわけでも、価値がなくなるわけでもない。非客観主義において、客観性の内容は、次の2点であるとする。
(a)自らの視点をいったん離れて、他の視点、それも、できるだけ多くのほかの視点から状況を見ること。
(b)直接的に有意味なもの-すなわち基本レベルの概念とイメージ・スキーマ的概念(下記で説明)-と、間接的に有意味な概念とを区別できるということ。
 客観主義が、「神の視点が存在し、人間はそれに近づくことしかできない」と考えるならば、客観主義は、他に考慮に値するような概念化の仕方は存在しないと考える立場を取ることになる。よって、客観主義の立場を取っていては、客観性そのものが不可能になると非客観主義者は言う。




5 カテゴリー
客観主義、非客観主義どちらの見解にあっても、われわれが経験に基づいて意味づけする主なやり方として、カテゴリーの形成といったことが取り沙汰される。客観主義的見解では、カテゴリーを特徴づけるに際しては、(1) カテゴリー形成を行っている生物体の身体性といったものは無関係であり、(2) 文字通りの形で行われるものであって、「カテゴリーにとって何が本質であるか」に関してはいかなる想像的な仕組み(メタファー、メトニミー、イメージ)が関与してくることはない、とされる。一方、非客観主義では、われわれの身体性に基づいての経験やわれわれが想像的な仕組みをいかに使用するかということは、カテゴリー形成に中心的な役割を果たすものとされる。
伝統的な見解である客観主義は、2000年にも渡る哲学的考察から生まれてきたものである。この見解今でも多くの客観主義者たちに信じられているが、その理由は以下の2点である。(1) 単にそれが伝統的に存在してきたというだけのこと、また(2) 伝統的な見解の中の正しい部分は保っておき、他方新たに修正された代案が、最近に至るまで存在してこなかったことである。ここで言いたいことは、カテゴリーに関して共通の属性を基盤としているとする古典的見解が全面的に誤りである、ということではない。全面的に誤りではないが、しかし、それはカテゴリー化全体から見ればほんの一部分にすぎない。プロトタイプ理論というカテゴリー化の新しい理論が登場し、それによって人間のカテゴリー化は、はるかに広大な原理に基づいていることが明らかになったのである。プロトタイプ理論では、カテゴリー化は、一方では人間の知覚、身体活動、文化の問題であり、他方ではメタファー、メトニミー、心的イメージの問題として捉えている。
 人間のカテゴリー化の体系に繰り返し現れる一般原理には、次のようなものがある(ここではいくつか省略されている)。
  -中心性   : カテゴリーの基本的成員と呼んだものは中心的である。例えば、「鳥」というカテゴリーの中心にはスズメやツバメなどが当てはまる。
  -連鎖    : 複合的なカテゴリーは連鎖によって構造を与えられている。すなわち中心的な成員が他の成員と結びついて、後者はさらにまた他の成員と結びついて、という具合に。例えばヂルバル語では、女性は太陽と、太陽は日焼けと、日焼けはヘアリー・メアリー・グラブ(地虫の一種)と結びつくため、これらは同じカテゴリーに入っているのである。
  -経験領域  : 基本的な経験の領域というものがあり、中には各文化に固有のものもある。このような経験の領域によって、カテゴリー内の連鎖を構成する連結線が特徴付けられる。
  -共通性の欠如 : 一般的に、カテゴリーというものは共通の特性によって規定されなくてもよい。われわれは例えば女性、火、危険なものに共通点を見出すことができるが(どれも恐ろしい、など)、ヂルバル語話者がそれらに共通点があると思っているなどと考えるべき根拠は何もなく、実際に彼らは共通点があるとは思っていない。


.1 プロトタイプ
 ここでは、プロトタイプに関して、その「基本レベル」と呼ばれるものをみていく。
例えば、英語学習の初期段階において、mammalpoodleではなく、dogという単語を習う。これはdogが人間にとって最も理解しやすいレベルであるからであり、それを基本レベルと呼ぶ(mammalは上位レベル、poodleは下位レベル)。Rosch et al(1976)は、基本レベルを、カテゴリーの成員が同様に知覚される全体的な形状をもつ、もっとも高いレベルである、などの特徴をもつとする。基本レベルのカテゴリーは、以下の4点(知覚、機能、コミュニケーション、知識の組織化)において規定される。


知覚    : 全体的に知覚された形状;単一の心的イメージ
機能    : 一般運動プログラム
コミュニケーション: もっとも短く、もっとも一般的に使用されて文脈的に中立的な語であり、子どもに最初に習得され且つ最初に語彙目録に登録される。
知識の組織化  : カテゴリーの成員のほとんどの属性はこのレベルで蓄積される。


基本レベルのカテゴリー化についての研究は、次のようなことを示唆する。(1) われわれの経験が、基本レベルにおいて、概念形成以前に構造化されている。また、(2) われわれは、ゲシュタルト的知覚、身体運動、そして豊かな心的イメージの形成を通して、現実世界の事物における「部分と全体の構造」を取り扱うことのできるような一般的能力を持っている。これによって、われわれの経験に概念形成以前の構造が与えられるのである。われわれの基本レベルの概念は、その概念形成以前の構造に対応する。


.2 イメージ・スキーマ
身体化された理解を説明するために、イメージ・スキーマと隠喩的投射は欠かせないものである。.3で後者を述べることとして、ここではイメージ・スキーマを扱う。
まず、イメージ・スキーマとは、われわれの知覚的相互作用と運動プログラムに、繰り返し現れる動的パターンであり、これによってわれわれの経験に首尾一貫性と構造とが与えられる。われわれの身体の運動、対象の操作などには、繰り返し現れる型が伴う。こうした型がなければ、われわれの経験は混沌としたものになってしまうのである。例えば、垂直性スキーマは、われわれが経験から意味に満ちた構造を取り出す場合に、上-下(up-down)という方向付けを用いる傾向があることから創発する。われわれは毎日垂直性に触れており、例えば樹を知覚したり、立ち上がったり、子どもの身長を測ったりする。この経験に基づき想像力に媒介されたイメージ・スキーマ的な構造が、意味と合理性にとって不可欠の要素なのである。イメージ・スキーマのうち、重要度が高いとみなす(Lakoff 1987, p.255)ものには、容器/力の可能性/道/部分-全体/バランス/中心・周縁などがある。


.3 隠喩的投射
ここでは、イメージ・スキーマに続き、身体化された理解を説明するために隠喩的投射の重要性を簡単に説明する。
 隠喩は理解にひろく浸透した様式であり、主要な認知的構造の一つである。これによってわれわれは首尾一貫した秩序ある経験をもつことができ、抽象的理解を組織できる。イメージ・スキーマによって構造化されたものを、隠喩によって抽象的な領域へ投射することができ、このようにしてわれわれは理解を行うのである。例えば、”more is up” という隠喩的投射の方法で考えてみる。われわれは量というものに関して、垂直性スキーマを用いて”Prices keep going up.”などということが出来る。これはわれわれが、more(増加)はup(上)に方向付けられたものとして理解している事実を示唆している。



<今後の展望>

 今ほど、われわれは隠喩的投射よって抽象的理解を行っているという説明を行いましたが、ここで出発点であった「腑に落ちる」という表現に焦点を当てたいと思います。この表現には、”unknown is up; known is down”という隠喩的投射が用いられており、そこには”understanding is grasping”という経験基盤が関わっています。今後、私がこの観点を念頭に隠喩的投射についてもっと知り、非客観主義の立場から、人間の理解に関する身体性について研究を進めることが必要だと感じております。
本研究では、われわれを取り囲む「環境」に注目します。そう考える理由は、Lakoff(1988)において「理解とは、われわれが身体的相互作用、言語的伝統、歴史的背景、そして文化的制度を通じて、いかに有意味に世界に位置づけられているかということである」とされ、私が「腑」という言葉をそういった「環境」(身体的相互作用、言語的伝統、歴史的背景、そして文化的制度)からの切り口で探っていけないかという展望を持ったからです。日本人、あるいはある文化圏の英語話者が、どのような「環境」の中にいて、それがどのように言語に現れているのかということを「腑に落ちる」あるいは”to go down with”といった表現を中心に明らかにしていきたいと思います("to go down with”には身体部位の表現がないので、身体部位を用いた言語表現を見つけなくてはなりません)。
しかしながら、未だ研究の明確な方向性や具体性は定まっていないです。今後さらに、理解の身体性、日本人の「腑」に現れる「環境」といったことを、私自身が本研究の基盤として深めていかなければならないでしょう。

以上



2013年4月21日日曜日

A Warrior in Elemental School Education
―菊池省三先生のセミナー・懇親会に参加して―


今日は「ほめことばのシャワー」で有名な菊池省三先生にお話しを伺いました。

ご存知の方は多いかと思いますが、菊池先生の簡単な紹介をしておきます。先生は北九州市の小学校教員で、荒れているクラスを「ほめことばのシャワー」代表される独自の方法で、見事に立て直すことで有名です。何度もテレビ・新聞などのマスメディアに取り上げられ、今最も注目されている教育者の一人です。

そんな菊池先生のセミナー・懇親会に参加させていただいて多くを学び、そこから自分が考えたことを含めて、キーワード毎に今回は書きたいと思います。



☆「ほめことばのシャワー」
 
 先生は毎日、朝の会で「ミニライフ・ヒストリー」、帰りの会で「ほめことばのシャワー」という活動を行っています。
 
 まず前者の「ミニライフ・ヒストリー」とは、一人が前に立ち、その子に向かってクラスの全員がいろいろな質問を展開していくという活動です。例えば、「最近、自分を笑顔にしてくれたことは?」「自分が人を笑顔にするのと、自分が笑顔にされるのとどっちが好きですか?」といった質問をしてきます。何のためにそのような活動をするのでしょうか。それは、私は「他人を思いやることのできる子どもを育てること」であると考えます。

(実は、上記の例のような質問事項は、菊池先生が2年間かけて、徹底的に子どもの人間性を高めた段階で出る質問なんです。上記のような質問ができる子は、本当に素敵です。そういう子に変えることができる菊池先生のすごさが、上記の子どもの質問から垣間見えます。肝心な、「菊池先生はどういう指導をしてるの?」というのはご著書『「ことばのシャワー」の奇跡』などをご覧下さい。)





そして後者の、帰りの会の「ほめことばのシャワー」は、一人の子に対してクラス全員が、その子が一日でしたいいところ・成長したところをほめるという活動。一回に約30人の友達からほめことばを浴び、それが積み重なると1年間で4500のほめことばのシャワーを浴びるらしいです。それで自分に自信がつかないわけはないですよね。
 
 以下には、「なぜ先生は子どもにほめことばを浴びせるのか」ということに関して、私の見解を述べます。
 
 先生は、「価値語」と呼ばれる、こどもたちが変わるために必要な「教訓」をもっています。「教訓」は、人生の先輩として、教師が生徒に伝えるべきものです。例えば、相手を思いやることは大切だよ/いじめは絶対にいけないよというものから、前を向いて座るんだよ/姿勢をよくしなさいといったことまで様々です。しかし、先生がもつようなこどもは、始め髪が明るかったり、自分の立場を保つのに友達を無視したりするような子たちです。そのような「素地」もなっていない子どもたちに、いくら教訓や指導を諭しても、こどもが聞く姿勢を持っていないのですから効果は発揮されません。それどころか先生との溝は深まるばかりです。
  
 そこで、菊池先生はまず信頼関係を築こうとします。それは、子どもを見て、ほめれる点を見つけてほめることです。そしてとにかくほめ、また仲間からも互いにほめさせ、それが「自分はみられている、他人がみてくれている」という安心感に繋がります。あるいは、仲間の良い点を探す訓練になります。そうなったら、いじめなどは起きませんよね(なぜならいじめは、他人の欠点を責め立てるものだからです)。
  
 そうして子どもたちに「素地」が出来た段階で、少しずつ人間を変えていきます。しかしもちろん突然子どもが聖人のようになるはずもなく、そこで先生は「ほめことば」を使います。「価値語」と一緒にほめことばを添えて、子どもに提示するわけです。例えば、「何ページまで音読し終わったら座りなさい」という指示を与えたとして、みんなが音読を終えて座った後でも、一人の子が音読を続けたとします(実はみんな音読が残ると恥ずかしいから、読み終わっていないのに座っている状況)。そこで先生はすかさず、その子を相当ほめます。そこで何が起こっているかというと、「自分に正直にいることはすばらしい」というメッセージが子どもに暗に伝わるわけです。もちろん明示的にことばで諭したりもします。先生はそれに留まらず、「一人が美しい」という表現にその出来事を表し、以後そのクラスで「今の行動(例えば誰も立候補しない委員長に立候補すること)は『一人が美しかった』ですね」とするそうです。クラスでの新語を作っています。(私はここに感動しました。。。)
 要するに、先生が子どもをほめる理由のひとつは、価値語を添付して子どもに伝え、成長させるためだと思いました。

 

☆教師の精神~戦う教師・菊池省三~

 先生の指導理論・方法に関しては、興味のあるかたは先生のご著書を読んでいただければと思います。私は小学校教師希望ではありませんが、そこから学ぶことは山のようにありました。
 ここからは、懇親会を通して菊池先生から学んだ、教師としてのあり方を書かせて頂きます。

 題名にもつけましたが、正直言って菊池省三という方は戦士(Warrior)です(笑)
 なぜか。
 まず、先生のいわゆる「荒れている子どもたち」との戦いは、4月の離任式(あるいは入学式)開始と共に合戦の合図がなります(こんなこと書いたら怒られそうですが。。。)。先生はそこで先手を打ち、ヤンキース軍団の4番バッター(笑)から順にほめれる点を見つけます。そして先制攻撃をその4番バッターから5番バッターへと順に仕掛けていくわけです。そうして先手を打ち、少しずつ信頼関係をつくってから人間を変えていくそうです。
 あるいは、子どもを叱るときは 教師と他の子ども 対 叱られる子ども という構図で叱ります。一見聞こえは悪いですが、教師が1人だと負け戦になり、効果は発揮されないからです。私が尊敬する広大の某Y教授はそれを「兵法だ~これこそ兵法だ~」とおっしゃっていました(笑)そういう風にして、大好きなクラスの子どもたちだからこそ日々戦っているんだと思います。

 そして何より先生のすばらしいのは、「上」と戦う姿勢です。私が懇親会に参加して得たもっとも価値のある学びは、ここです。
 
 菊池先生くらい独自な教育をされていると、制度だとか決まりだとか...そういったものを片手に持つ権力者や評価者(教育委員会とか校長とか)にとっては面白くないそうです。だから彼らはそういった教師を抑えようとしてきます。現場の現状もしらないで、理論だとか風習だとかを押し付けます。それに抗うのは、相当にしんどいもので、だから多くの教師はそういった評価者の目を気にして自分が正しいと思うものから目を背け、見(え)ないようにしています。それは先生に怒られまいと先生ばかりを気にする子どもと何ら変わりません。
 権力者に迎合するのではなく、抗って自分のスタイルを作っていき、それを維持しているのが菊池省三先生です。その姿勢がいずれはとても大切になることを学びました。では彼の原動力は何かというと、それは週に1度の教師の私塾とのこと。金曜の晩から土曜の朝方までぶっ通しで、毎週教育論を語りあうそうです。そこでできた仲間が先生の原動力の一つであるそうです。*1
 
 私も将来、評価者に迎合せず、自分の教育観をしっかりと見つめていける教師になるべく、そういった私塾も考えていきたいと思うようになりました。

 
 以上、最後は菊池先生の「ほめことばのシャワー」とは大きく外れてしまいましたが、セミナー・懇親会の感想でした。一級の達人にお会いすることが本当に自分の身に為ります。




 *1 「原動力」について
    1、上述の毎週の教師の私塾
    2、評価者からの圧力に対する反抗心。「こいつめ、なにくそっ!」という怒りが原動力に。
    3、「憧れに憧れる」
       やはり教師たるもの、より良い授業を求め続けることが原動力となる。いい授業をみたり、人に会ったり、本を読んで研鑽を積み続けることが最も大切である。教育者で「化け物」がいれば会いに行って、時にはそれが大切なつながりとなる。フットワークは軽く。




2013年4月11日木曜日

寺島先生の懇談会に参加して②


前回の続きです。
今回もテーマを1つに絞って書かせていただきます。

「外国のSLAの研究を勉強してばかりいるけど、そろそろ日本人による日本人のための英語習得法を積み重ねていかないと」

 私はそれほどSLAを勉強してきたわけでなく、それを日本人が懸命に勉強することに対して批判するのは100億万年早いですが、この寺島先生のお言葉にはハッとさせられました。

 寺島先生がおっしゃるには、まず日本と外国では英語学習の環境が違う。日本人は英語を学習言語としてEFLの環境で勉強しています。教室から一歩でれば英語をしゃべることなど正直言って皆無であり、寺島先生の立場ですら日本で英語を話す機会などほとんどないそうです。それに対して、アメリカやイギリスなどの国では生活言語としてESLの環境で英語学習を行います。そのような国が発達させてきたSLA研究を環境の違う日本の英語教育に導入して果たして効率的だろうか、と先生はおっしゃっています。
 
 確かに、日本人が日本語で積み重ねてきた日本語教育は、日本人が英語で書いてある外国の理論や研究を取り入れながら(江戸時代から)発展させてきた英語教育よりも、進んでいると言ってもなんら反論はありません。先生いわく、国内には様々な優れた実践があり、それらにもっと注目して「日本人による日本人のための英語教育」を積み重ねていかなければならない、とのことでした。先生も高校教師時代、大西忠治や西郷竹彦など国語教育者の実践を大いに参考にし、読み漁ったそうです。

 私も個人的に、国語教育の授業を受けたときに、国語教育が英語教育よりも進んでいるなあと感じました(勉強不足です、あくまで、そう感じました)。今後は国語教育の膨大な研究を英語教育に応用していく必要性を強く感じています。言語教育というカテゴリでは同じ分野ですしね。

 まずは寺島先生が大西忠治の影響を受けて作られたという「3読法」を勉強してみたいなあと考えてます。

 

2013年4月3日水曜日

寺島隆吉先生を囲んでの懇親会に参加して


 
 3月29日、柳瀬陽介先生が開催した「寺島先生を囲んでの懇親会」に参加してきました。
 
 懇親会の様子としては、参加者は10人程度で、
 図書館のグループ閲覧室(1.5h)→大学内カフェ(1h)→大学近くのイタリアンレストラン(2h)→寺島先生宿泊のホテルロビー(1h)でお話をたっぷりお聞きすることが出来ました(最後のロビーでのお話は、私が先生をお送りした際に、先生のご好意で急遽設けて下さったものです、大変感謝しております)。



まずは
寺島隆吉先生のご紹介
1944年7月12日生まれ。東京大学教養学部教養学科(科学史科学哲学)卒業。英語教育応用記号論研究会(JAASET、略称「記号研」)代表。高校教諭(英語)として在籍。以下、詳細は寺島研究室参照。

著書:『英語教育原論』(明石書籍)、『英語教育が亡びるとき』(明石書店)、『英語にとって文法とは何か』(あすなろ社)、『英語にとって教師とは何か』(あすなろ社)など多数。

訳書:『チョムスキー21世紀の帝国アメリカを語る』など多数。



 
 では以下、懇親会のまとめと感想です。
 ここでは、先生の言葉を抜粋して、それを説明する形をとり、短めにまとめるよう努力します。

 

「大切なのは、本当に必要になったときに役立つ英語力、つまり “幹” を教えることです。」

 
 これは私が「生徒にどういう英語力を最優先としてつけてあげるのですか?その最優先で教える内容を教えて下さい」という質問に答えていただいたものです。
 
 
 まず私がこの質問をした背景を説明します。
 英語教師は大変な状況におかれながら生徒の英語力を伸ばそうと努力しています。
 まずは40人学級という状況。海外では外国語学習に関して、20人クラスで「多人数クラス」10人クラスで「少人数クラス」と呼ばれています。それを考慮すると、いかに日本人英語教師1人がみる生徒の数が多いか、おわかりになるでしょう。こんな状況では特にスピーキング、ライティング指導などまともに出来るはずがないです。まあ、やらないといけないんですがね。(苦笑)
 次に、言語的距離です。英語と日本語というのはかなり言語的に遠いんですね。ヨーロッパ人が英語を学習するのは、私たち日本人が沖縄弁や東北弁を勉強するようなもの、と似ています。しかし日本語母語話者が英語を学ぶのは、容易なことではありません。文科省のいうような、「ディスカッションを行う」「概要や要点をとらえたりする」、そして「これらはすべて英語で行う」を6年間で達成しろ、というのを真面目に受け止めたらどうなるでしょうか。まあ、やれと言われるんでしょうが。(苦笑)
 そして最後に、受験です。今のような激しい競争社会となった日本において、受験というのは生徒にとって最大の課題となっています。また、教師も「私のクラスは○人○○大学に受かりました」「テストの平均点はこれだけとれました」という風に、やはり競争社会で生きています。そのような状況で教師自らが生徒に「これだけはつけてあげたい」「こういうことを子どもたちに伝えたい」という思いをどう達成するのでしょか。

 上の3点に加え、校務分掌、部活指導、生徒の服装指導。(寺島先生著『英語教育が滅びるとき』参照)そのような状況において、そして泣き言など言っていられん立場を踏まえて、生徒に英語力としてどのようなことを最優先に教えるべきか、寺島先生のお考えを尋ねたのが上記の質問です。


 その質問に対する寺島先生のご解答が「大切なのは、本当に必要になったときに役立つ英語力、つまり “幹” を教えることです。」でした。以下に、英文法指導に限定して、その要点を述べます。

・ 英文法を並べられて覚えることができるのは、大学受験で英語を必須とする生徒、忍耐力がある生徒、英語が大好きな生徒。しかし並列的に文法を教えられてもつまらない(羅列主義は退屈)。

・ そこで教師は文法の「これさえ教えれば全てに共通していく」という“幹”を見つける(知っておく)必要がある。

・ 英文法指導は、なぜそのような形態でそのような意味になるのか、という根本的な原理を教師が分かっておかなくてはならない。根本を知っているのと知らずに教えるとでは大違い。

・ 原理がわかった上で学習と指導を!

・ “幹”さえ生徒がつかめれば、あとはそこから(生徒自身が)広げていくだけ。

・ 詳しくは『英語にとって文法とは何か』(あすなろ社)参照。 (私もまだ読めていません...)


以上

 
 先生がこういうお考えをされているのも、先生は科学史、科学哲学の分野に精通しており、理系の考え方ができるからでしょう。安直な例ですが、数学の公式1つで膨大な数の計算ができます。科学分野にはある公式が全ての元である、という公式があるみたいですし(抽象的な言い方ですみません!)。その考え方を英語教育、ここではその文法指導に応用されているのでしょう。


 今回は「英語授業で最優先に教えることは何か」という質問に対する先生のお答えを紹介するだけに留まります。長くなるので...


 次回も引き続き、寺島先生懇親会で得たことを紹介させていただきます。